2026年03月15日「何の権威によるのか」
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何の権威によるのか
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 21章23節~27節
聖書の言葉
21:23 それからイエスが宮に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがその権威をあなたに授けたのですか。」
21:24 イエスは彼らに答えられた。「私も一言尋ねましょう。それにあなた方が答えるなら、私も、何の権威によってこれらのことをしているのか言いましょう。
21:25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると彼らは論じ合った。「もし天からと言えば、なぜヨハネを信じなかったのかと言うだろう。
21:26 だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから。」
21:27 そこで彼らはイエスに「分かりません」と答えた。イエスもまた、彼らにこう言われた。「私も、何の権威によってこれらのことをするのか、あなた方に言いません。」マタイによる福音書 21章23節~27節
メッセージ
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私たちを罪と永遠の滅びから救うため、世に来られた神の御子イエスは、紀元30年頃、ユダヤの都エルサレムで十字架にかかられ、命をお捧げになりました。その最後の一週間を、マタイの福音書は21章から伝えます。今朝も、その週のある日の出来事から大切なことを教えられたいと思います。
今朝の聖書箇所は権威に関することを教えます。
イエスがエルサレム神殿の一画で教えておられますと、当時のユダヤ教の権威者であった祭司長たちや民の長老たちが来て、23節「何の権威によって、これらのことをしているのですか。誰がその権威をあなたに授けたのですか」とイエスを咎め(とがめ)ました。「これらのこと」とは、病人の癒しや18~22節が伝える宮きよめを初め、イエスの教えや行動の全てを指します。
当時のユダヤでは、祭司長たち・律法学者たち・民の長老たちからなるサンヘドリンというユダヤ最高法院が宗教的な一切のことを管理する権威を持ち、彼らの許可なしには何もしてはなりませんでした。ですから、彼らから見れば、イエスの教えも行いも全て違反していました。ある註解書によりますと、聖書と伝統を重んじる当時のユダヤ教では、教えの正統性と権威保持のために、ラビ、つまり、ユダヤ教の教師になる者は、最低三人のラビの前で、恩師であるラビから按手されなければなりませんでした。従って、そういうこととは関係なく、神の権威の下に自由に行動しておられた主イエスは、ユダヤ最高法院からずっと問題視され、ついに彼らはイエスに詰め寄ったわけです。
しかし、イエスは逆に彼らに質問なさいます。24、25節「私も一言尋ねましょう。それにあなた方が答えるなら、私も何の権威によってこれらのことをしているのか言いましょう。ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」
マタイの福音書3章が伝えていました「バプテスマのヨハネ」、すなわち、人々に罪の悔い改めを迫り、悔い改めた人たちに洗礼を授けていた洗礼者ヨハネは、イエスに先立って道を備える、すなわち先駆者であり、人々にイエスを救い主だと証言していました。
イエスの質問に彼らは困りました。彼らは、ヨハネの授けた洗礼が、25、26節「もし天からと言えば、それならなぜヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、もし人から出たと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と思っているのだから」と論じ合い、結局27節「分かりません」と答えました。彼らはイエスの質問から逃げ、ごまかしたのでした。
そこでイエスは彼らにこう言われました。27節「私も、何の権威によってこれらのことをするのか、あなた方に言いません。」
以上、ユダヤ教権威者たちと主イエスとの、権威についてのやり取りを見ました。
ここから私たちはどんなことを教えられるでしょうか。多くの大切な教えと御業(みわざ)をして来られたイエスに、彼らは「何の権威によって」と問いただしました。答は勿論、「神の権威によって」です。イエスは、私たち罪人の救いのために人間となられた神の独り子(ひとりご)なのですから、当然、神の権威によって絶えず教え、神の権威によって常に行動されました。
そして、本当に大切なことは、彼らであれ今日の私たちであれ、<私たち自身が何の権威を心から覚えて、真実に生きているのか>なのです。
第一に、真(しん)に恐れるべき真(まこと)の神の権威を無視し、ごまかしの中に生きていますと、人は自分を真(まこと)の神からますます遠ざけ、自らの人格を低め、神の裁きと永遠の滅びを招きます。この点を、よく覚えておきたいと思います。
イエスに質問され、痛い点を突かれた彼らは、卑怯にも答をはぐらかし、ごまかして逃げました。この場は、それでうまく切り抜けた、と思ったことでしょう。
彼らはユダヤ最高法院に属し、神の権威に誰よりも服し、その下で全てのことを考え、行動し、人にも教える立場にいました。しかし、今、彼らが何より恐れたのは人々の声であり、自分を守ることが第一だったのでした。
しかし、生ける神の権威を尊び恐れることよりも、いつもその場しのぎで、ただ自分を守ることだけに生きているなら、どういうことが起るでしょうか。興味深いことに、イエスは27節「私も…言いません」と言われました。「私は答えない」と言われるのです。
分かりやすく言いますと、神の権威を尊び恐れることを忘れ、ごまかし、不誠実に生きていますと、全てのものの根源者であられる真(まこと)の神と救い主イエスのことも、イエスご自身がお教えにならないということです。27節「私も…言いません」と言い、イエスは私たちに神の真理を教えることを拒否されることがあるということです。その結果、私たちは真(まこと)の神のことが更に分らなくなります。これは何と恐ろしいことでしょう。
そして、世の終りに神の審判の座に立つ時、こんな私たちは、隠れたことも全てご存じの神の裁きに、どうして耐えられるでしょうか。神の権威を無視し、何が真実で何が正しいのかを第一とせず、何が自分にとって安全なのかだけを考えて生き続けることほど、自分の人格を低め、醜くし、最後に永遠の滅びに自分を追いやる不幸なことはありません。このことを、よ~く覚えておきたいと思います。
第二に、神の権威をよく覚え、尊び、恐れ、それ故、神と人の前で常に何が真実で何が正しいかを優先し、それを選び取って生きることほど幸いなことはないことを、よく覚えたいと思います。
その幸いの一つは、つい先ほどお話したことの丁度逆です。つまり、ますます私たちの人格を清め、人間性を高めることです。私たちが、人間にとって結局一番大切な造り主なる真(まこと)の神とその御心をもっと知りたいと、心底へりくだって、でも本気で主イエスに願うなら、イエスは決して27節「私も…言いません」などと言って、拒否なさることはありません。
むしろ、御言葉と御霊により、エペソ人への手紙3:18、19が言いますように、ますます神とその救いの愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知を遙かに超えたキリストの愛を知ることができ」るようにされます。
すると、私たちの人格また人間性は一層きよめられ、高められ、主イエスご自身に似る者とされます。何という幸せ、喜びであり、感謝なことでしょうか。
幸いの二つ目は、私たちが、全宇宙で最高の権威をお持ちの真(まこと)の神を恐れることにより、真(しん)に勇気と忍耐力のある者にされ、また世の終りの審判の時、最高の祝福に必ず与らせていただけることです。
私たちが自分を最も試されるものは、やはり死ではないかと思います。病気、あるいは事故や災害、戦争で命を失うことがありますし、今日でも信仰の故に殺されることがあります。
しかし、主イエスはルカの福音書12:4~7でこう言われました。「私の友であるあなた方に言います。体を殺しても、その後(あと)はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなた方に教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなた方に言います。この方を恐れなさい。五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。それどころか、あなた方の髪の毛さえも、全て数えられています。恐れることはありません。あなた方は、多くの雀よりも価値があるのです。」
十字架は実に残酷な処刑方法です。とことん人を苦しめ、痛めつけて殺します。けれども、その十字架の死から約束通り復活された主イエスは、天の父なる神の御許(みもと)に戻られる前にこう言われました。「私には天においても地においても、全ての権威が与えられています。」(マタイの福音書28:18)
ですから、主イエス・キリストの権威、支配の及ばない領域など、この全宇宙に、それこそ今の若い人たちの真似をして言いますと、まさに1ミリもありません!私たちクリスチャンの救いの根拠も、また救いに伴う罪の赦しと永遠の命の祝福は勿論、どんな喜び、平安、感謝、賛美、確信の根拠も、皆、全宇宙より遙かに大きな権威をお持ちの天地の造り主、生ける真(まこと)の神とその御子なる救い主イエス・キリストの内にあるのです。
人は私たちクリスチャンに言うかもしれません。「あなたにはキリスト教の信仰があって、何やら平安そうだし、もう救われているので、いつ死んでも天国に行けるとか言っているけれど、どうしてそんなことまで言えるのかね。」
無論、私たちは、自分自身の中にそう言える根拠を持っているのではありません。私たち自身の中には、そういうものは全くありません。
しかし、私たちがそうであるのは、私たちの信じる永遠の救い主、神の御子イエス・キリスト、また天と地を造られた生ける真(まこと)の神の、ただその大きく確かな権威の故であり、その神が信仰者に下さっている救いの約束、また素晴らしい福音の故になのです。
このことを、絶えず日曜日の公同礼拝で御言葉と聖礼典に与りながら、また、ごまかしやはぐらかしではなく、一回一回、正しく真実なあり方、生き方を選ぶことを通して、ますます確実にし、救いの道を確信と平安をもって、皆で堅く踏み締めて行きたいと思います。