聖書の言葉 49:13 「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子を憐れまないであろうか。たとえ女たちが忘れても、この私は、あなたを忘れない。49:16 見よ、私は手のひらにあなたを刻んだ。」イザヤ書 49章15節~15節 メッセージ 神の独り子(ひとりご)、主イエス・キリストを心から信じる者に与えられる希望、すなわち、罪の赦し、永遠の命、また万事を益とされ、全ての試練に耐えさせられ、神に背負われることなどを、今まで学んで来ました。今日は、私たちが神の手のひらに刻まれることから来る希望を学びたいと思います。 現在78歳の私は、大分前から色々忘れやすくなりました。何かの用事で他の部屋に行くのですが、その部屋に入った途端、何の用事でそこに来たのかを忘れることがあります。情けないです。しかし、これなどは自分だけに関係することですので、まだいい方です。困るのは、人に関することを適当に聞いていたため、忘れてしまう時です。「いやぁ、困った。どうしよう」と思うのですが、ずっと思い出せない時もあります。すぐメモすれば良かったのですが、それを怠ったため、失敗してしまいます。意識して「これは覚えよう」と自分に命じないと忘れます。 まあ、年齢の近い他の人たちに聞きますと、皆よく似ていますので、少し胸をなで下ろします。それにしても、人間は本当に忘れやすい存在だと思います。 以上のことは、それ程重大なことではありませんでしたので、今まで何とかやって来ることができましたが、もし人の一生や命に関るような重大なことでしたら、どうでしょう。とんでもないことですね。でも、悲しいことに、私たちにはそういうこともないわけではないと思います。人間の限界をつくづく思わされます。 ところで、天地の造り主、生ける真(まこと)の神はどうでしょうか。元より神のことなど全然何とも思わず、他人のことも考えず、自分のことしか頭にない人のことは、別です。しかし、信仰は弱く、色々欠けはありますが、それでも一生懸命、誠実に神の御心に従って生きていこうとしている信仰者に対して、神はどうであられるのでしょうか。神も私たちと同じようにウッカリ、あるいはスッカリ信仰者を忘れられることがあるのでしょうか。 神の御言葉・聖書は、そういうことは絶対にないことを教えます。心からへりくだって神を信じ、全てを神に委ね、神に従おうとしている誠実な信仰者を、神がお忘れになるなど、断じてあり得ません。 先程お読みしましたイザヤ49:15、16で神はこう言われます。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子を憐れまないであろうか。たとえ女たちが忘れても、この私は、あなたを忘れない。見よ、私は手のひらにあなたを刻んだ。」 女性が自分の産んだ子供を忘れるなんてことは、あり得ません。もっとも、最近の若いお母さんの中には、自分の診察が終ったら、入口辺りに寝かせていた自分の子供を忘れて帰りそうになった人もいたということで、ある医者が嘆いていたという話を聞いたことがあります。 しかし、万万万一、人間の母親にそういうことがあっても、私たちの創り主であられ、また私たちを罪そのものと永遠の悲惨から救うために御子イエスを世に送り、私たちの代りに御子を十字架につけ、罪の償いをして下さった程に私たちを愛しておられる真の神は、御子を心から信じ、受け入れ、寄り頼む信仰者にこう言われます。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子を憐れまないであろうか。たとえ女たちが忘れても、この私は、あなたを忘れない。見よ、私は手のひらにあなたを刻んだ。」 大事なことを忘れないために、メモ用紙のない時は、とっさに自分の手のひらにボールペンなどでメモされる看護師さんたちを、私はかつて働いていた病院の中で何度も見ました。偉いなと思いました。 けれども、神はそれどころではありません。神は16節「見よ、私は手のひらにあなたを刻んだ」と言われます。メモ書き程度ではありません。手のひらに掘り刻むと言われます!血が滲み、痛くてもかまわない。無論、これは比喩ですが、絶対忘れないために、神はご自分の子供にした信仰者を、ご自分のてのひらに刻むと言われるのです。何という神の愛でしょう! ですから、何が起り、どうなろうとも、神は信仰者を決してお忘れになりません!人は私たちを忘れても、神はお忘れにならない!永遠に私たちを覚え、愛し続けて下さるのです。 しかも、ここの手のひらは、原文のヘブル語では複数であり、両方の手のひらを指します。私たちも片方だけでなく、両方の手のひらを合わせ、その中を見る時、私たちの眼差しは慈しむような優しい眼差しになっていると思います。神はそれを伝えておられるのです。 考えれば、神の御子イエスは両手・両足に鉄の杭を打ち込まれ、十字架で殺されました。全ては神の摂理の下にあります。いわば神の手のひらの中でそれも行われ、神は大きな痛みを覚えられたのではないかとなどと考えます。 けれども、神は御子イエスをお約束通り復活させ、そして今度は、御子を信じる者をご自分の両方の手のひらに刻み、その中で私たち信仰者をご自分の永遠の喜びとしておられるのです!何という光栄でしょう! ですから、苦しく、また不安な時、是非、自分の手を出し、両方の手のひらをそっと見つめ、勿体なくも私たちが神の温かい手のひらに刻まれ、その私たちを慈しむように笑顔でご覧になっておられる神の眼差しを覚え、そこに今後の一切のことについての希望を覚えたいと思います。 関連する説教を探す 2026年の祈祷会 『イザヤ書』
神の独り子(ひとりご)、主イエス・キリストを心から信じる者に与えられる希望、すなわち、罪の赦し、永遠の命、また万事を益とされ、全ての試練に耐えさせられ、神に背負われることなどを、今まで学んで来ました。今日は、私たちが神の手のひらに刻まれることから来る希望を学びたいと思います。
現在78歳の私は、大分前から色々忘れやすくなりました。何かの用事で他の部屋に行くのですが、その部屋に入った途端、何の用事でそこに来たのかを忘れることがあります。情けないです。しかし、これなどは自分だけに関係することですので、まだいい方です。困るのは、人に関することを適当に聞いていたため、忘れてしまう時です。「いやぁ、困った。どうしよう」と思うのですが、ずっと思い出せない時もあります。すぐメモすれば良かったのですが、それを怠ったため、失敗してしまいます。意識して「これは覚えよう」と自分に命じないと忘れます。
まあ、年齢の近い他の人たちに聞きますと、皆よく似ていますので、少し胸をなで下ろします。それにしても、人間は本当に忘れやすい存在だと思います。
以上のことは、それ程重大なことではありませんでしたので、今まで何とかやって来ることができましたが、もし人の一生や命に関るような重大なことでしたら、どうでしょう。とんでもないことですね。でも、悲しいことに、私たちにはそういうこともないわけではないと思います。人間の限界をつくづく思わされます。
ところで、天地の造り主、生ける真(まこと)の神はどうでしょうか。元より神のことなど全然何とも思わず、他人のことも考えず、自分のことしか頭にない人のことは、別です。しかし、信仰は弱く、色々欠けはありますが、それでも一生懸命、誠実に神の御心に従って生きていこうとしている信仰者に対して、神はどうであられるのでしょうか。神も私たちと同じようにウッカリ、あるいはスッカリ信仰者を忘れられることがあるのでしょうか。
神の御言葉・聖書は、そういうことは絶対にないことを教えます。心からへりくだって神を信じ、全てを神に委ね、神に従おうとしている誠実な信仰者を、神がお忘れになるなど、断じてあり得ません。
先程お読みしましたイザヤ49:15、16で神はこう言われます。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子を憐れまないであろうか。たとえ女たちが忘れても、この私は、あなたを忘れない。見よ、私は手のひらにあなたを刻んだ。」
女性が自分の産んだ子供を忘れるなんてことは、あり得ません。もっとも、最近の若いお母さんの中には、自分の診察が終ったら、入口辺りに寝かせていた自分の子供を忘れて帰りそうになった人もいたということで、ある医者が嘆いていたという話を聞いたことがあります。
しかし、万万万一、人間の母親にそういうことがあっても、私たちの創り主であられ、また私たちを罪そのものと永遠の悲惨から救うために御子イエスを世に送り、私たちの代りに御子を十字架につけ、罪の償いをして下さった程に私たちを愛しておられる真の神は、御子を心から信じ、受け入れ、寄り頼む信仰者にこう言われます。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子を憐れまないであろうか。たとえ女たちが忘れても、この私は、あなたを忘れない。見よ、私は手のひらにあなたを刻んだ。」
大事なことを忘れないために、メモ用紙のない時は、とっさに自分の手のひらにボールペンなどでメモされる看護師さんたちを、私はかつて働いていた病院の中で何度も見ました。偉いなと思いました。
けれども、神はそれどころではありません。神は16節「見よ、私は手のひらにあなたを刻んだ」と言われます。メモ書き程度ではありません。手のひらに掘り刻むと言われます!血が滲み、痛くてもかまわない。無論、これは比喩ですが、絶対忘れないために、神はご自分の子供にした信仰者を、ご自分のてのひらに刻むと言われるのです。何という神の愛でしょう!
ですから、何が起り、どうなろうとも、神は信仰者を決してお忘れになりません!人は私たちを忘れても、神はお忘れにならない!永遠に私たちを覚え、愛し続けて下さるのです。
しかも、ここの手のひらは、原文のヘブル語では複数であり、両方の手のひらを指します。私たちも片方だけでなく、両方の手のひらを合わせ、その中を見る時、私たちの眼差しは慈しむような優しい眼差しになっていると思います。神はそれを伝えておられるのです。
考えれば、神の御子イエスは両手・両足に鉄の杭を打ち込まれ、十字架で殺されました。全ては神の摂理の下にあります。いわば神の手のひらの中でそれも行われ、神は大きな痛みを覚えられたのではないかとなどと考えます。
けれども、神は御子イエスをお約束通り復活させ、そして今度は、御子を信じる者をご自分の両方の手のひらに刻み、その中で私たち信仰者をご自分の永遠の喜びとしておられるのです!何という光栄でしょう!
ですから、苦しく、また不安な時、是非、自分の手を出し、両方の手のひらをそっと見つめ、勿体なくも私たちが神の温かい手のひらに刻まれ、その私たちを慈しむように笑顔でご覧になっておられる神の眼差しを覚え、そこに今後の一切のことについての希望を覚えたいと思います。