2026年03月08日「枯れたいちじくの木」
問い合わせ
枯れたいちじくの木
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 21章18節~22節
聖書の言葉
21:18 さて、朝早く都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
21:19 道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、他には何もなかった。それでイエスはその木に『今後いつまでも、お前の実はならないように』と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
21:20 弟子たちはこれを見て驚き、「どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか」と言った。
21:21 イエスは答えられた。「まことに、あなた方に言います。もし、あなた方が信じて疑わないなら、いちじくの木に起ったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。
21:22 あなた方は、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」マタイによる福音書 21章18節~22節
メッセージ
関連する説教を探す
マタイの福音書は、21章から神の御子イエスが私たちの罪を自ら背負ってエルサレムで十字架にかかられ、命をお捧げになる最後の1週間を伝えます。そういう緊迫した状況を念頭に置いて、今朝の箇所を見たいと思います。
18、19節は伝えます。「さて、朝早く都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、他には何もなかった。それでイエスはその木に『今後いつまでも、お前の実はならないように』と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」
ここを読み、正直なところ、私たちは少し複雑な気持ちにならないでしょうか。赦しと憐れみに満ちた主イエスが、いちじくの木に向かって呪いのような言葉をかけ、また木は実際に枯れてしまったからです。
この出来事は、並行箇所であるマルコ福音書11:12以降と20節以降も伝えています。木が枯れていることに弟子たちは、翌朝、気が付きます。しかし、マタイ福音書では、21:19が伝えますように、いちじくの木はたちまち枯れ、続く20~22節で、驚く弟子たちに対するイエスの教えを記します。福音書記者マタイは、時間的なことは省き、いちじくの木が枯れたことと主イエスの教えとをくっつけて伝えます。メッセージをはっきり浮かび上がらせるためでしょう。
では、この聖書箇所でマタイは、結局、何を伝えたいのでしょうか。21、22節から分りますように、万物の造り主なる真(まこと)の神とその御子なる救い主イエス・キリストへの信仰の大切さです。これを消極的な面と積極的な面の両方から伝えます。
まず消極的な面から見ます。それは折角、真(まこと)の神を知ることを許され、信仰とそれに伴う素晴らしい特権も一杯与えられていましたのに、12~17節のイエスによる宮きよめから学びましたように、礼拝と信仰が形骸化していた当時の不信仰なユダヤ人たちに神の裁きがあることです。
18節が伝えますが、イエスと弟子たちが夜、都エルサレムの約3km東にあったベタニアに泊り、翌日の朝早く都に戻る時、一本のいちじくの木がありました。いちじくはユダヤでは皆によく食べられていました。ただ、この時は過越の祭の直前であり、3~4月にかけての頃ですから、いちじくの実がなる季節ではありません。しかし、どういうわけか、葉が繁っていました。確かにイエスは空腹を覚えられましたが、むしろ、このいちじくの木を喩えというか視覚教材として用い、不信仰なユダヤ人への神の裁きを教えられたのでした。
実は旧約時代から、神は多くの預言者を通してご自分とその御心をユダヤ・イスラエルの民に伝え、旧約聖書に書き記し、そして何より神の御子イエスは、御言葉と御業(みわざ)により、父なる神を十分に示して来られました。
ところが、イエスを激しく妬んだ祭司長たちや律法学者たちを初め、当時のユダヤの多くの人は、儀式的なことには熱心であっても礼拝は形骸化し、そして大切な十戒が教える、つまり、神への真実な恐れと愛、また自分を低くし、愛をもって隣人に仕えるなどの実際的な点でも欠落し、ただ異邦人を蔑み(さげすみ)、罪深い状態でした。まさに、葉は見事に繁っていても実を結ばないいちじくの木と同じでした。そして彼らは数日後、全く罪のない神の御子イエスを、宗教的指導者たちにあおられてとはいえ、十字架で殺害するのでした。
こういう不信仰なことは旧約時代にもありました。例えば、紀元前8世紀の預言者ホセアは、不信仰な当時の北イスラエルについてホセア書9:16で「エフライムは打たれ、その根は枯れて、実も結ばない」と語り、神の裁きを預言しました。また預言者ミカもミカ書7:1~3で実を結ばないいちじくの木にイスラエルを喩え、神の裁きを警告しました。
それらの警告は歴史の中で実現しました。そして今、主イエスは、彼らがご自分を十字架で殺すのを承知の上で、いちじくの木を、いわば視覚教材として彼らへの神の裁きを警告されたのでした。実際、彼らは悔い改めなかったため、紀元70年、都エルサレムはローマ軍により徹底的に破壊され、夥しい(おびただしい)数の人が殺され、何と20世紀後半までユダヤ人は国を持たないままでした。
大切なことは、真(まこと)の神への真実な信仰です。葉っぱだけ繁ったいちじくの木のように、神への恐れを忘れ、形だけ礼拝し、あとは信仰のない人たちと同じようにいつも自分中心・自分第一として生き続けるなら、私たちも神に裁かれ、永遠の滅びに至りかねません。
ですから、「主よ、私の不信仰と欺瞞をお赦し下さい。形だけの信仰ではなく、あなたを真に(しんに)恐れ、愛し、また主イエスが、この私のために十字架で命までお捧げ下さったように、心からまず人に仕えんとする真実な信仰に生きる私に変えて下さい」と真剣に祈りつつ、毎日を積み重ねて行きたいと思います。
次に信仰に関して積極的な面を確認したいと思います。
いちじくの木が枯れたことに驚き、イエスに尋ねた弟子たちに、イエスはお答えになりました。21、22節「まことに、あなた方に言います。もし、あなた方が信じて疑わないなら、いちじくの木に起ったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのとおりになります。あなた方は、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」
イエスは、「この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、そのようになります」と言われました。無論、本当に山が立ち上がって海に入るというのではありません。これはユダヤでよく使われた誇張した表現です。マタイの福音書17:20でも、イエスは弟子たちに「もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります」と言っておられました。「山を移す」というのは、昔、ユダヤ人がよく使った慣用句であり、困難な問題を解決するという意味です。
イエスは、偽りの信仰のもたらす悲惨な結末を予告されましたが、同時に、神が真実な神信仰に伴わせておられる大きな恵みを強調され、弟子たちを励まされるのでした。
ここでは、これ以上詳しくイエスはお教えになりませんが、私たちは聖書の様々な所から、神とその約束を本気で信じることの大切さ、素晴らしさをよく覚えたいと思います。例えば、ヤコブの手紙1:6は言います。「少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かを頂けると思ってはなりません。」
主イエスはヨハネの福音書14:14で「あなた方が、私の名によって何かを私に求めるなら、私がそれをしてあげます」と約束され、16:23では「まことに、まことに、あなた方に言います。私の名によって父に求めるものは何でも、父はあなた方に与えて下さいます」と約束されました。この主イエスの約束を、是非、心から本当に信じ、真剣に祈り求めたいと思います。
興味深いことに、ここと同じように、いちじくの出来事を伝える並行箇所のマルコの福音書11:25は、「祈るために立ち上がる時、誰かに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなた方の父も、あなた方の過ちを赦して下さいます」とイエスが言われたことも伝えます。<自分は大事なことを神に祈り願う。だが、誰かを自分は絶対赦さない>という信仰では、神はお聞きになりません。<人を赦す信仰>の大切さを、しっかり心に刻みたいですね。
なお、念のために確認しますが、私たちが真実な信仰によって一生懸命祈れば、願いは全て叶えられるというのではありません。あくまで、神の御心ならば聞かれます。
けれども、私たちが神を真(しん)に恐れ愛する真実な信仰によって祈るなら、仮に私たちの願った通りにならなくても、最終的には、神は良いようにして下さる!これは確かです。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことが共に働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ人への手紙 8:28)とあるからです。真実な信仰による祈りは、決して無駄ではありません。
私たちを罪から贖うご自分の十字架の死を前にして、神の御子・主イエスがお教え下さった二つの点を、改めてよく心に留めたいと思います。
最後に、日本キリスト改革派教会・創立40周年記念宣言の第五項にあります大切な告白を覚えたいと思います。すなわち、神の「命令には従い、威嚇にはおののき、今と後(のち)の世の命の約束はこれを信じる」という告白に堅く立ち、いつ命の終りが来ても大丈夫なように、そして葉は繁ってはいるものの、実を結ばず、枯れたいちじくの木のようにではなく、神に喜ばれる実をしっかり結べるように、主イエス・キリストの福音にますます忠実に真実に生きて行きたいと思います。