2026年03月05日「ここに希望がある 6 神に背負われる」
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ここに希望がある 6 神に背負われる
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
イザヤ書 46章3節~4節
聖書の言葉
46:3 ヤコブの家よ、私に聞け。
イスラエルの家のすべての残りの者よ。
胎内にいた時から担がれ、
生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなた方が年をとっても、
私は同じようにする。
あなた方が白髪になっても、私は背負う。
私はそうしてきたのだ。
私は運ぶ。
背負って救い出す。イザヤ書 46章3節~4節
メッセージ
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神の御子、主イエス・キリストを心から信じる者に与えられている希望について、今日も聖書から学びたいと思います。
これまで、私たち信仰者に希望を与えるものとして、第一に罪の赦し、第二に永遠の命を与えられ、第三に万事を益とされ、第四に全ての試練に耐えられることを学びました。今日は五番目として、神に背負われることから来る希望を学びたいと思います。
1、2節から分りますように、ここは昔、バビロンでベルとかネボと呼ばれた偶像の神々に比べて、真(まこと)の神がどんなお方かを神ご自身が語られた御言葉です。偶像は自分では全く動けず、動物に運ばれ、しかし、その動物が躓(つまず)けば、偶像も転げ落ちて壊れてしまう。けれども、真の神は全く違います。
ここで私たちの心に最も響くのは、恐らく4節の、すなわち、神が私たち信仰者を背負って下さることでしょう。これは何と大きな希望で私たちを支えるでしょうか。
しかも神は、第一に決して変ることのないお方です。この世は常に変化しています。人も社会も家族も、いいえ、私たち自身も変ります。私たちは何を頼れば良いのでしょう。
しかし、神は言われます。4節「あなた方が年を取っても、私は同じようにする。あなた方が白髪になっても、私は背負う。」神はマラキ書3:6でも「主である私は変ることがない」と言われ、救い主イエス・キリストも変わりません。ヘブル人への手紙13:8は言います。「イエス・キリストは昨日も今日も、とこしえに変ることがありません。」これは何と大きな慰めでしょうか。
第二に、神はとことん真実であられます。神は元のヘブル語聖書では4節で5回も、「私、私」と言われます。そうまで言って、神は私たち信仰者を<責任をもって背負う>と言われるのです。何と大きな励ましであり、何という希望を私たちに与えることでしょう。
神は真実であられます。どんな困難が襲おうとも、へりくだって心から御子を信じるなら、私たちが年老いて「白髪」になり、それどころか自分のことも周りのことも分らない位衰えても、神は私たちを天の御国(みくに)まで背負い、どこまでも真実であられます。テモテへの手紙 第二2:13が言いますように、私たちが真実でなくても、イエス・キリストは常に真実で、ご自分を否むことができません。私たちのためにそうでいて下さいます。何と感謝なことでしょう。そして何と大きな希望を私たちに与えるでしょうか。
第三に、神は力に満ちた方でもあられます。神は、不変で真実であられることに加え、力に満ちたお方でもあります。イザヤ書46:9~11で神は言われます。「遠い大昔のことを思い出せ。私が神である。他にはいない。私のような神はいない。私は後(のち)のことを初めから告げ、『私の計画は成就し、私の望むことを全て成し遂げる』と言う。…私は語って、それを来らせ、計画を立てて、それを実行する」と。
ですから、この世がどう変ろうとも、神はご自分の計画を必ず実現なさる全能者なのです。実際、神は昔、エジプトを初め大国から小さなイスラエルを奇跡的な力をもって救われました。
しかし、神の力は何といっても御子イエスを処女マリアより誕生させ、特に私たちの救いのために十字架の死から復活させられたことに最高に現されました。そういう全能の神が、へりくだって心から御子イエスを信じる者に、6節「私は運ぶ。背負って救い出す」と断言して下さっています。これ以上の希望があるでしょうか。
讃美歌21の484番「主、我を愛す」には、「主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ。我が主イエス、我が主イエス、我が主イエス、我を愛す」という歌詞があります。その通り、主イエスを心から信じ、依り頼む者は、本当にこう歌える恵みを頂いています。ここに希望があります。
恐らくイザヤ書46:4を念頭に置いて、あるいはそれに教えられて作られたと思われる有名な詩があります。マーガレット・パワーズが1964年に作りました『あしあと』(Footprints)という詩です。それを読んで終りたいと思います。
ある夜、私は夢を見た。私は主と共に渚(なぎさ)を歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出された時、私は、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生で一番辛く、悲しい時だった。このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。私があなたに従うと決心した時、あなたは、全ての道において、私と共に歩み、私と語り合って下さると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛い時、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、私には分りません。」
主は、ささやかれた。「私の大切な子よ。私は、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとが一つだった時、私はあなたを背負って歩いていた。」