2026年02月15日「ろばの子に乗るイエス」

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ろばの子に乗るイエス

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

21: 1 さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来たその時、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。
21: 2 「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、私のところに連れて来なさい。
21: 3 もしだれかが何か言ったなら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」
21: 4 このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。
21: 5  「娘シオンに言え。
     『見よ、あなたの王があなたのところに来る。
  柔和な方で、ろばに乗って。
     荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」
21: 6 そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
21: 7 ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。
21: 8 すると非常に多くの群衆が、自分たちの道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。
21: 9 群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。
    「ホサナ、ダビデの子に。
    祝福あれw、主の御名によって来られる方に。
     ホサナ、いと高き所に。」
21:10 こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。
21:11 群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだと言っていた。
マタイによる福音書 21章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイの福音書は、21章から、全世界の救い主・神の御子イエスが私たちの罪を背負い、エルサレムで十字架にかかって命をお捧げになるその最後の1週間を伝えます。今朝の聖書箇所は、その最初の、つまり、イエスのエルサレム入城の時の様子を伝えます。まず全体を見ておきたいと思います。

 1節が伝えますように、イエスと弟子たちの一行は、ヨルダン川から西へ進み、エリコの町を通り過ぎ、更に西のエルサレムへ近づきました。その手前のオリーブ山の南麓にベテパゲという村がありました。並行箇所のマルコの福音書11章とルカの福音書19章は、ベタニア村のことも伝えています。

 ヨハネの福音書12:1によりますと、過越の祭りの6日前、つまり金曜日にイエスはベタニアに来られ、当時は安息日であった土曜日はそこで休まれ、翌日の日曜日にエルサレムへ入城されます。

 そこで、まずイエスは二人の弟子に、2、3節「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ロバが繋がれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、私の所に連れて来なさい。もし誰かが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます」と言われました。

 二人は出かけました。マルコの福音書11章とルカの福音書19章によりますと、ろばの持ち主たちは「どうして、子ろばをほどくのか」と尋ねます。二人が「主がお入り用なのです。すぐにお返しします」と答えますと、許してくれました。彼らは、既に噂で聞いていましたので、イエスを信頼したのでしょう。それと共に、主イエスが人の心の中も分り、またご自分の働きのために人をも動かしお用いになれる主権者であられることもここから分ります。

 弟子たちは、7節、ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着を上に掛け、イエスは子ろばの上に座られました。すると、8節「非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちも」いました。上着を敷いたり木の枝を切って道に敷くことは、王を迎え、歓迎する時のやり方でした(列王記 第二9:13参照)。

 ヨハネの福音書12:13は、人々が「なつめ椰子」の枝を持って迎えたことを伝えています。そこで、キリスト教の暦では、この日曜日を特別に「しゅろの日曜日」と呼んで来ました。しゅろは椰子の仲間です。

 さて、イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入られますと、群衆は9節「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に」と叫びました。

 「ホサナ」はヘブル語で「お救い下さい」という意味ですが、新約時代の頃には「栄光がありますように」という意味で使われるようになっていました。

 人々はイエスを「ダビデの子」、すなわち、神の国の王なる救い主として讃えました。

 無論、ヨハネ福音書2:25が伝えますように、イエスは人の心の中にあることも分っておられ、今はご自分を讃える群衆の多くが、やがては祭司長や長老たちに説得されて、ご自分を「十字架につけろ」と叫ぶ者に変ることもご存じでした。けれども、今は彼らを黙って受け入れておられました。

 イエスに対する思いは、実は色々でした。10節が伝えますように、都のエルサレム中は大騒ぎになり、「この人は誰なのか」と疑う人たちや分らない人たちもいました。一方では11節「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言ってイエスを讃える人たちもいました。特にガリラヤから来た人たちにこれが多かったでしょう。

 さて、今朝の聖書箇所はどういうことを特に伝えようとしているのでしょうか。

 先程は触れませんでしたが、4、5節「このことが起ったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。『娘シオンに言え。見よ、あなたの王があなたの所に来る。柔和な方で、ロバに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って』」と、神に導かれてマタイが説明していることがとても大切です。

 5節1行目の「娘シオンに言え」、つまり、「エルサレムの住民に言え」というのは、救いを予告した旧約聖書のイザヤ書62:11の引用です。従って、イエスはこういうお姿でエルサレムに入ることで、ご自分が神からの約束の救い主であられることをハッキリ教え、示されたのでした。

 そしてマタイは続けて、5節2行目以降ですが、「見よ、あなたの王があなたの所に来る。柔和な方で、ロバに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って」と言います。これは紀元前6世紀後半の預言者ゼカリヤの預言したゼカリヤ書9:9の引用です。

 実は、ここには微妙な違いが見られます。ゼカリヤ書9:9の後半は「見よ、あなたの王があなたの所に来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って、雌ろばの子である、ろばに乗って」です。ところが、マタイは21:5で「義なる者で、勝利を得」は引用せず、「柔和」な方だということと「ろば」、それも「ろばの子」に乗ってということだけを伝えます。

 戦うための大きな強い馬ではなく、小さなろばの子に乗るというのも、全人類の救い主、神の国の王なる主イエスが、どんなに柔和な救い主であられるかを表していると言えるでしょう。

 無論、主イエスは偽善や貪欲、自己中心な罪や悪をひどくお嫌いです。ですから、21:12以降が伝えますように、いわゆる<宮きよめ>をイエスはエルサレム神殿で断行されます。

 また今も主イエスは、ご自分を信じる者たちにしばしば辛い体験をさせ、罪や不信仰から離れさせようとされます。

そして世の終りに主イエスは再臨され、最後まで悔い改めず、神に立ち返らなかった不信仰な者たちを一人残らず裁き、彼らは永遠の悲惨に至ります。

 そうではありますが、今朝の聖書箇所が伝えますように、五日後にはご自分が十字架にかけられるエルサレム、それもご自分を殺そうとする人たちも待ち構えているそのエルサレムに、イエスがろばの子に乗って、ご自分が柔和な救い主であられることを示された意味は大きいと思います。

 もしイエスが、今まで私たちが言葉と体で犯した夥しい数の罪だけでなく、私たちの心の中の密かな罪まで全てご存じで、やがて一切を皆の前で暴かれ裁かれる、ただ絶対的に義なる方であるだけなら、どうでしょうか。この弱くて情けない罪人の私たちの希望は、一体、どこにあるでしょうか。私たちの人生は、永遠の死、永遠の裁きに向うだけではないでしょうか。

 しかし、ここに福音があります!聖霊に導かれてマタイが何としても伝えようとしましたように、主イエスは、5節「柔和な方で、ろばに乗って、荷ろばの子である、子ろばに乗って」、敢えてご自分を表された本当に柔和な救い主なのです。

 従って、自分の罪深さ、汚れ、醜さ、恥かしさ、足りなさゆえに、本来は顔も上げられない私たちですが、決して絶望する必要はありません。ですから、旧約聖書・詩篇130の作者も次のように歌うことができました。

 「主よ、深い淵から私はあなたを呼び求めます。

  主よ、私の声を聞いて下さい。私の願いの声に耳を傾けて下さい。

  主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、

  主よ、誰が御前に立てるでしょう。

  しかし、あなたが赦して下さる故に、

  あなたは人に恐れられます(=人は一層あなたを堅く信じ忠実な者になります)。」

 ご自分の命までお捧げになって、私たちを罪と悲惨な永遠の裁きと滅びから救って下さる、どこまでも柔和な救い主、主イエス・キリスト!今朝の礼拝の前奏曲(讃美歌21-522)のように、まさしくこの世のどんな宝や富、楽しみや誉れ、有名な人になることも人のほめ言葉も、美しいものも、「キリストにはかえられません」。

 ですから、私たちも御言葉を右にも左にも曲げず、何かを付け足すことも何かを差し引くこともせず(申命記4:2)、宗教改革の戦いと伝統に立つ改革派信仰を堅く守り、ますます義なる者にならせて頂くと共に、敢えてろばの子に乗ってご自分を表された主イエスのように、柔和な者として信仰を絶えず励まし合い、ローマ人への手紙12:15が教えますように、「喜んでいる者たちと共に喜び、泣いている者たちと共に泣き」、世が改まる時には、永遠の御国を皆でご一緒に受け継ぎたいと思います。

 イエスは言われます。マタイ福音書5:5「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」

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