2026年02月01日「仕える者になりなさい」
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仕える者になりなさい
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- 田村英典 牧師
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マタイによる福音書 20章24節~28節
聖書の言葉
20:24 ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。
20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなた方も知っている通り、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
20:26 あなた方の間では、そうであってはなりません。あなた方の間で偉くなりたいと思う人は、皆に仕える者になりなさい。
20;27 あなた方の間で先頭に立ちたいと思う者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖い(あがない)の代価として、自分の命を与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
マタイによる福音書 20章24節~28節
メッセージ
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本日は午後、定期会員総会がありますが、それとは特に関連はなく、今朝はいつものマタイの福音書から、私たちが人に仕える者であることの大切さをよく学びたいと思います。
24節に「他の十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた」とあります。前回学びました17節以降で、ゼベダイの二人の息子ヤコブとヨハネの母親が、神の国が始まる時、息子たちを要するに最高の位に就けてほしい、とイエスに頼んだことを見ました。並行箇所のマルコ福音書10:35は、この願いが二人から出たことを伝えています。ですから、24節が伝えますように、他の十人の弟子たちは、母親にではなく、二人の息子たちに腹を立てました。「我々を出し抜いて、何と卑怯な!」という気持だったのでしょう。
しかし、問題は二人の弟子だけでなく、他の十人も同じでした。実際、彼らは既に「天の御国(みくに)では、一体誰が一番偉いのですか」(18:1)とイエスに尋ねていました。つまり、このことがずっと彼らの脳裏にあったのです。
そこで、20:25が伝えるように、イエスは皆を呼び寄せ、大切なことをお教えになります。25、26節「あなた方も知っている通り、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなた方の間では、そうであってはなりません。」
ここに私たちは、まず第一に、万物を造られた真(まこと)の神を、御子イエスと聖書によって正しく知り信じている人と、そうでない人との大きな違いの一つを教えられます。それは、対人関係において、特に自分が何らかの役に就くとか、皆をまとめたりする立場になった時に顕著に現れます。
無論、真の神をよく知らず、信じていない人でも、人々に対して横柄にふるまうとか権力をふるったりしない人はいます。
神は、私たちを御子イエスへの信仰により、罪と永遠の滅びから救って下さる特別恩恵を下さるだけでなく、一般恩恵をも、つまり、罪の赦しと永遠の救いに与るのではありませんが、信者、未信者に関係なく、全ての人に共通の恵みも注いで下さっています。ですから、真の神を知らない人の中にも、誠実で良心的、謙虚で温和な人たちもおられます。イエスはそういう異邦人のいることも、無論、よく承知しておられます。
しかし、どちらかと言いますと、25、26節でイエスが言われますように、「異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるって」いると言えるでしょう。
権力や地位には、恐ろしい魔力があると言われたりしますが、確かにそういう誘惑があります。元は普通の人であったのが、地位や権力を手にした途端、傲慢になり、横柄な態度やふるまいをし始め、回りの人を苦しめ、パワハラの人になったという例は、何と多いことでしょうか。
昔の封建時代だけでなく、今日も一般企業、国会や地方自治体、いいえ、町内会や小さな集団でもこれは起ります。生れながらに罪の性質・原罪が人間にあることは、こういう形で非常によく現れます。
しかし残念なことに、これは真の神とその聖い(きよい)御心を知っているはずのクリスチャンにも現れます。そこで第二に、私たちは絶えず自分自身に警戒すべきことを教えられます。
イエスは弟子たちに言われました。26、27節「あなた方の間では、そうであってはなりません。あなた方の間で偉くなりたいと思う人は、皆に仕える者になりなさい。あなた方の間で先頭に立ちたいと思う者は、皆の僕(しもべ)になりなさい」と。
イエスは23:11でも「あなた方の内で一番偉い者は皆に仕える者になりなさい」と言われ、ルカの福音書23:26では「あなた方の中で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい」と述べておられます。つまり、イエスはこれを繰り返しお教えになります。それほど重要なことだからです。
先ほど少し触れました原罪、すなわち、生れた時から私たちの内に染みついている罪の汚れた性質は、主イエスを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、依り頼み、洗礼を受けたクリスチャンの内にも残っていて、それは色々な形で現われます。その一つが、対人関係において自分が人より上だと思いたい欲求です。そういう自己中心的な欲求を、聖書は創世記から黙ヨハネの示録まで、どんなに伝えていることでしょう。
これが向上心という形で機能すれば、まだ良いのですが、自分が下だと感じますと妬みを覚え、創世記4章が伝えますように、弟を殺したカインのように、他者を排除する姿勢になって来ます。
逆に自分が上だと思いますと、傲慢さが横柄な態度や言葉に現われ、自分を中心的・支配的立場にしていたい欲求となります。信仰的にまだまだ未熟であった十二弟子に見られましたように、これは今も私たちの中で起ります。
ですから、今朝、私たちは聖書を鏡として、自分の心の最も奥にある罪深い所から目を逸らさず、直視し、醜い自己中心性を認め、主イエスに真剣に赦しを求め、醜い部分を取り除いて下さるように叫びたいと思います。
昔、ダビデは叫びました。詩篇51:1、2「神よ、私を憐れんで下さい。あなたの恵みに従って、私の背きを拭い去って下さい。あなたの豊かな憐れみによって。私の咎(とが)を、私からすっかり洗い去り、私の罪から、私を清めて下さい。」
そこで最後ですが、第三に、ご自分を私たちのために徹底的に低くされ、私たちに仕えて下さった主イエスのお姿を、いつでも繰り返し覚え、倣いたいと思います。イエスは言われました。28節「人の子(主イエスご自身のこと)が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖い(あがない)の代価として、自分の命を与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
この世におられた間、主イエスがご自分を低くされ、僕(しもべ)のように人間に仕えられたことを、ピリピ人への手紙2:6~8が伝えていますので、そこを読んでみます。「キリストは、神の御姿(みすがた)であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、僕(しもべ)の姿を取り、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死に至るまで、それも十字架の死にまで従われました。」
ペテロは言いました。ペテロの手紙 第一 2:21「キリストも、あなた方のために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなた方に模範を残された。」
14世紀の後半から15世紀の後半に生きたトマス・ア・ケンピスは、『キリストに倣いて(ならいて)』という有名な本を書きました。その本は、どんなに多くの人に読まれてきたでしょうか。とはいえ、自らを低くされ、私たち罪人を救うために十字架で命まで捧げ、私たちに仕えて下さった神の御子イエス・キリストに倣うことは決して簡単ではありません。けれども、自分ファースト・自分第一を臆面もなく主張する人々の多い今、このことは何と大切で尊いことでしょうか。
そして私たちを愛して下さっている父なる神、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊なる神であられる三位一体(さんみいったい)の神は、このように生きる者をどんなに喜ばれることでしょう!
当伝道所の今年の標語「キリストのうちに共に生きる」が、イエス・キリストに倣って人に仕える者となることも意味することを覚え、自分の生き方、自分のあり方を、今朝、改めてハッキリ決めたいと思います。どうか、神が私たち一人一人を強め、人に仕えることを第一とする私たちを通して、救われる方々がますます増え、神のお喜びが増し加わりますように!