2026年01月18日「人の願いと神の意思」
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人の願いと神の意思
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 20章17節~23節
聖書の言葉
20:17 さて、イエスはエルサレムへ上る途中、12弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
20:18 「ご覧なさい。私たちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、
20:19 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目に甦り(よみがえり)ます。」
20:20 その時、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスの所に来てひれ伏し、何かを願おうとした。
20:21 イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、お言葉を下さい。」
20:22 イエスは答えられた。「あなた方は自分が何を求めているのか分っていません。私が飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。
20:23 イエスは言われた。「あなた方は私の杯を飲むことになります。しかし、私の右と左に座ることは、私が許すことではありません。私の父によって備えられた人たちに与えられるのです。」マタイによる福音書 20章17節~23節
メッセージ
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マタイの福音書からここ2回ほど、神のなさり方は私たちの期待や思いとしばしば異なること、しかし、それは神に問題があるのではなく、信仰があっても私たちの内になお残る罪の性質が原因であることを学びました。
今朝の御言葉からも、少し内容は違いますが、それを重ねて教えられます。
もう一度、17~19節を読みます。「さて、イエスはエルサレムへ上る途中、12弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。『ご覧なさい。私たちはエルサレムに上って行きます。人の子(イエスご自身のこと)は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目に甦り(よみがえり)ます。』」
イエスは、ヨルダン川から約30km西にあるエルサレムへ上って行かれる中、12弟子だけを呼ばれ、間もなく起るご自分の受難を予告されました。受難予告を、イエスは16:21と17:22、23でもされましたが、今回はその内容をより一層詳しく明確に語られます。
第一に、イエスは「祭司長たちや律法学者たち」、つまり、サンヘドリンと呼ばれた当時のユダヤ最高議会により公的に正式に死刑に定められます。当時のユダヤでは、これは最悪のことであり、イエスは極悪人として裁かれることになります。
第二に、イエスは19節「異邦人」、すなわち、当時、ユダヤを支配していたローマ人、特に総督ポンテオ・ピラトに引き渡され、苦しめられます。イエスの死には、ユダヤ人だけでなく、ローマ人を代表とする異邦人も、言い換えれば、全人類も関係することになります。
第三に、イエスは19節が伝えますように、嘲られ、むち打たれ、極刑である十字架に架けられます。つまり、徹底的に苦しめられ、残酷に殺されることになります。
今回もイエスは19節で「三日目によみがえ」ると言われました。しかし、弟子たちにはイエスの受難予告の方が強く心に響き、復活のことは心に殆ど残らなかったでしょう。
受難予告をこうして3回も聞いた弟子たちは、どんな気持ちだったでしょうね。しかもイエスは18節「ご覧なさい。私たちはエルサレムに上って行きます」と言われました。「ご覧なさい」と訳されている元のギリシア語は、強く注意を促す言葉になっています。従って、ここにはイエスの非常に強い決意が見られ、弟子たちはどんなに驚き、恐れたことでしょう。並行箇所のマルコの福音書10:32は「弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた」と伝えています。
以上が緊張感に満ちたこの時の状況でした。
ところが、イエスのこんなに厳しい受難の予告にも関らず、弟子たちの反応は意外なものでした。20、21節は伝えます。「その時、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスの所に来てひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが彼女に『何を願うのですか』と言われると、彼女は言った。『私のこの二人の息子があなたの御国(みくに)で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、お言葉を下さい。』」
ゼベダイの息子たちとは、ヤコブとヨハネのことです。実は並行箇所のマルコ10:35は、この二人の兄弟自身がイエスに願い出たと伝えています。息子たちが言い出したことを、母親が親心から代弁してイエスに伝えたのでしょう。ですから、後の24節から分りますように、他の弟子たちは、母親にというより、「この二人の兄弟に腹を立てた」のでした。いずれにせよ、イエスの十字架の死を前にした緊迫した状況ですのに、弟子たちも家族も何とも情けない状態でした。
しかし、これは他人事(ひとこと)ではないと思います。状況は違いますが、救い主イエス・キリスト、また神のご計画に関る本当はとても重要な時ですのに、私たちも他のことに心を傾け、愚かなことを考え、どうでも良いことに、うつつをぬかしていることはないでしょうか。
聖書は、昔から鏡だと言われて来ました。この時の弟子たちと母親も、私たちの不信仰や愚かさ、鈍感さを映す鏡と言えます。ですから、私たちもただ聖書を読み、あるいはただ説教を聞くのではなく、それらを通して語っておられる神また主イエス・キリストご自身に真剣に向き合う姿勢を決して忘れず、堅く持っていたいと思います。
ところで、イエスがご自分の死を予告されたのに、何故、弟子たちは自分の栄光を求めるようなことをしたのでしょうか。
当時のユダヤ人の信仰を知る上で、旧約外典が良い資料となります。その一つ、ラテン語のエズラ記7:29~33によりますと、メシア・救い主の死は神の国をもたらすと思われていました。そのため、イエスの死の予告は、弟子たちに神の国の到来が近いという期待を与えたのでしょう。
ここに私たちは、世間で言われ信じられていることに左右されることなく、聖書の御言葉そのものに堅く留まることの重要性を教えられます。イエスは言われました。ヨハネの福音書8:31「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。」
さて、イエスはヤコブとヨハネの二人に、22節「あなた方は自分が何を求めているのか分っていません。私が飲もうとしている杯を飲むことができますか」と、二人の思い違いを指摘され、苦難を抜きにして栄光はないことを教えられました。すると彼らは22節「できます」と答え、これに対し、イエスは23節「あなた方は私の杯を飲むことになります」と言われました。
そのとおり、ヤコブは使徒の働き12:1が伝えますように、12使徒の中で最初の殉教者となりました。またヨハネは使徒の働き4章が伝えますように、ペテロと共に12使徒の中で最初に捕えられ、晩年は黙示録1:9が伝えますが、パトモス島に島流しにされました。イエスが言われたとおり、彼らは迫害という苦難の杯を飲み、死の直前までよく耐え、神と人に仕え、福音を証しして世を去りました。
しかし、だからといって、ペテロの手紙 第二 3:10が言いますように、今の世界が滅び、罪も汚れもなく、義と愛と聖さ(きよさ)と真実に満ちた全く新しい世界に変る時、彼らに二人にイエスの右と左という栄光の座が与えられるわけではありません。イエスは言われます。「私の右と左に座ることは、私が許すことではありません。私の父によって備えられた人たちに与えられるのです。」(マタイ20:23)。すなわち、こういうことは、父なる神が主権をもって、ご自分の意思で決定されるのであり、人間の願いで決まることではないと明確にお教えになります。この点での、つまり、神の領域に踏み込まないというわきまえがとても大切です。
今朝の御言葉から、私たちはどんなことを教えられるでしょうか。今朝もまた徹底的に教えられることは、私たち人間のどうしようもない自己中心の罪の性質です。
それは、まず鈍感さに現われます。ご自分の受難をイエスは三度も語られました。しかし、ゼベダイの息子たちを筆頭に弟子たちの反応は何ということでしょう。鈍感でピーンと来ていません。自分を中心にして生きているからです。
自分を中心に生きていますと、私たちは神についても鈍感で、何度御心を教えられても分らず、身に付きません。
また人の痛みや不安、涙、そして喜びなどにも鈍感で気付きません。
それどころか、更に自分の問題点にも鈍感で、自分を低めます。何と神に申し訳ないことでしょうか。
それと、自分中心な生き方は、私たちを、自分に得と思えることをすぐ第一とする者にしてしまいます。この時の弟子たちがそうでした。イエスの話を聞きはします。ですが、面倒に思えることとかイヤなことは無意識の内に避け、最近の言葉を使うなら、スルーし、彼らは自分の地位や自分の栄光を考えていました。何と利己的なことでしょう。
このように、自己中心性はますます神からも人からも私たちから遠ざけ、加えて、私たちを醜くします。何と不幸なことでしょう。
ですから、今朝教えられる大きな二つ目のことに話を進めますが、神の意思、神の客観的な御心は何であるかを、どんな時、どんな状況にあっても、まず立ち止まってしっかり考え、自分中心にではなく、神中心であることに、是非努めたいと思います。
無論、私たちは自分の願いを持っていてかまいません。それは神に許されています。とはいえ、自分自身を、しばしば自分中心に考え行動しようとする自分の言いなりにさせず、ローマ人への手紙12:2にありますように、「神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ」るのかと、神を中心に考え、神を中心に行動することがとても大切です。
神の意思、神の御心がよく分らない時には、神の領域にずかずか入り込まず、主イエスがお教え下さった主の祈りの第三祈願、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」の中の「地にも」のすぐ後に、<この私にも>という言葉を心の中で追加して、しっかり天を仰いで祈り、私たちを極みまで愛していて下さる救い主イエス・キリストに、自分を全面的に明け渡したいと思います。