2026年01月11日「後の者が先になり、先の者が後になり」

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後の者が先になり、先の者が後になり

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 20章1節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

20: 1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20: 2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20: 3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20: 4 そこで、その人たちに言った。「あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。」
20: 5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20: 6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが経っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。「なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。」
20: 7 彼らは言った。「だれも雇ってくれないからです。」主人は言った。「あなたがたもぶどう園に行きなさい。」
20: 8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。「労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。」
20: 9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初に来た者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 「最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのに、あなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。」
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。「友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。」
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。マタイによる福音書 20章1節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝も、御子イエス・キリストへの信仰だけで私たちの罪を全て赦し、永遠の救いに入れて下さる天地の造り主、生ける真(まこと)の神とその神の前での私たちのあり方について教えられたいと思います。

 今朝の説教題は、イエスが言われた16節「後(あと)の者が先になり、先の者が後になり」をそのまま使いました。19:30でもイエスはこれを、順序は逆で言葉遣いも少し違いますが、語られました。従って、今朝の聖書箇所は前回の教えの続きであり、更なる説明と展開、そして私たちへの適用と言えるでしょう。

 この言葉はクリスチャン以外の人にも知られていて、時々使われ、大抵は大逆転やどんでん返しという意味で使われます。しかしこれは、19:30を学んだ時に申しましたが、神のなさり方は、しばしば私たちの思いや期待と異なるということを教える御言葉です。イエスはこれを今朝の聖書箇所で、譬話により更に展開されます。

 そこで、まず例え話そのものを少し見ておきます。

 主イエスは1節「天の御国は」と言われます。要するに、信仰者に永遠の天の御国を下さる神の愛とそのなさり方についてということです。

 また、ぶどう園の主人と雇われる労働者たちは、神と私たち信仰者を指します。

 今から2千年前のユダヤでは、ぶどうの収穫時に労働者が大勢雇われました。しかし、当然、それにあぶれる人もいて、自分を雇ってもらえないだろうかと、一日中、切々とした思いで待ち続けたでしょう。

 1節に「朝早く」とあります。当時は、朝6時からの労働であり、夕方6時までの12時間労働でした。賃金は2節にありますように「一日一デナリ」であり、仕事が終る夕方6時にそれをもらえるのでした。

 では、この例え話から、私たちはどういうことを教えられるでしょうか。

 その一つは、何と言っても、私たち罪人を罪とその結果である悲惨な永遠の滅び、永遠の死から、ただ御子イエスへの信仰によって救おうとされる神の愛と憐みがどんなに大きいかということです。

 ぶどう園の主人は、朝早く市場に出かけ、雇ってくれるのを待っている人たちを大勢見つけ、一日一デナリの約束で雇いました。その日に必要な労働者は、本当はそれで十分確保できたことでしょう。

 ところが、この主人は3節「また、9時頃出て行き」、別の人たちを雇ってやりました。雇ってもらえずに心細い思いで立っていた人たちに、主人は4節「相当の賃金を払うから」と言って安心させてやるのでした。

 それだけではありません。5節が伝えますように、昼の12時頃にも、そして午後3時頃にも行き、別の人たちを雇ってやるのでした。いいえ、6節にありますように、あと1時間で仕事が終るのが分っているのに、5時頃にも出て行き、悲しい思いで一日中仕事を求めて立っていた人たちをも雇ってやりました。

 そして、途中から働いた人たちにも、いいえ、それどころか、夕方の5時から1時間しか働かなかった人たちにも、朝6時から働いた人たちと同じように一デナリを、それも最初に払ってやるのでした。

 イエスは何を教えようとしておられるのでしょうか。父なる神がどんなに憐み深いお方かということです!この主人には、後からの人たちまで雇う義務はありません。それなのに、彼は自分から何度も足を運び、誰にも雇ってもらえずにしょんぼり立っている人たちに自分から声をかけて雇い、しかも後で雇われた人たちから賃金を払ってやります。彼らはどんなに驚き、喜び、感謝したことでしょう!

 天の父なる神も同じなのです。神には、歴史の終りに近いこんな時に生きている私たち、それも神が愛をもって造られたにも関らず、傲慢で自分第一で自己中心な私たち罪人を救う義務など、ありません。

 それにも関らず、神はただ憐みから、なおも聖書と教会とクリスチャンたちを通してご自分から私たちに近づき、働きかけ、声をかけ、永遠の救いの恵みを、実に忍耐強く、また15節「気前」良く与えて下さるお方なのです。ペテロの手紙 第二 3:9は言います。「主は…約束したことを遅らせているのではなく、あなた方に対して忍耐しておられるのです。誰も滅びることがなく、全ての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

 私たちが不信仰と罪を悔い改め、イエス・キリストによりご自分に立ち返ることを忍耐強く願っておられる神の驚くばかりの愛と憐みを、今朝、私たちは改めてしっかり受け留め、認識し、感謝し、喜んで、主イエス・キリストにお従いしたいと思います。

 そこで第二の点に進みます。何でしょうか。この溢れるばかりに大きく豊かで、忍耐強い神の愛と憐みを何より心に覚え、ひたすら神への感謝に留まり、今後も神に喜ばれることを第一にして生きることです。

 最初に雇われた人たちの一人は、後で雇われた人たちと自分たちとを比較し、11節「主人に不満をもらし」、主人にこう言いました。12節「最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。」

 確かに労働時間だけを取り上げれば、彼らの不満も分らなくはありませんね。でも、やはりこれは間違っています。第一に、13節で主人が言いますように、どんなに仕事が辛くても、最初から一日一デナリの約束であり、彼らも同意していた契約なのですから、これは何ら不当なことではありません。

 第二に、14節で主人が「私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです」と言うように、これは辛く惨めな思いをしていた人たちへの主人のただただ深い愛によるものです。従って、他人がどうこう言えることではありません。

 第三に、主人が15節「自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか」と言うように、全く主人自身の所有物と判断に関することですから、他人が口を挟めることではありません。

 第四に、そもそも不満をもらす人たち自身も主人の好意で雇われたのですから、まずは主人に感謝すべきでしょう。ところが、それはなく、ただ他人と自分を比較して不満と妬みを溜め込みました。これは身勝手ではないでしょうか。

 以上のことに、私たちも余程気を付けなくてはなりません。というのは、ここにあるのは結局、自分を中心にして神も人も見る自己中心性だからです。つまり、不信仰で罪深い私たち皆への神の驚くほど豊かな愛と憐れみ、また神の自由で主権的な判断に基づくイエス・キリストによる救いの恵みという点をよく理解していませんと、私たちも神に不満を覚え、他の人に不満や妬みを抱きかねません。すると、16節「後の者が先になり、先の者が後になり」ということが自分に起っているように思えるでしょう。

 しかし、実はそのように思える時こそ、とても大事な時なのです。そういう時に、神は私たちに大切なことを再教育しようとしておられるからです。すなわち、滅んで当然の不信仰な私たち罪人皆への神の驚くばかり豊かな愛と憐れみ、また神の自由で主権的なご判断に基づくイエス・キリストによる救いの恵みについての教育です。

 特に「後の者が先になり、先の者が後に」なると思える位、神が私たち罪人の皆にどんなに忍耐強く、愛と憐れみに満ち、私たち皆の救いにどんなに熱心であられるかを、よく覚えたいと思うのです。テモテへの手紙 第二 2:4は言います。「神は、全ての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」と。

 ですから、私たちも、つい自分を中心に人を見、「あの人は得をしている。でも、神はどうして私にはこうなのか」などと、神に対しても不満を覚えかねない自らの認識不足と不信仰を恥じ、心底悔い改め、それと共に「私のような後の者に過ぎず、取るに足りない者にも忍耐強く何度も何度も呼びかけ、救いの絶大な恵みを下さる神は、何と愛と憐みに満ちたお方か!」と心底感謝し、神を讃えたいと思います。

 そして、「全ての人が救われ、真理を知ることを望んでおられる豊かで熱い神の愛と憐みを、一人でも二人でも多くの方々にお伝えする愛のある、そして謙虚な者に、もっともっと私を変えて下さい」と主イエス・キリストに祈りたいと思います。

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