2026年01月04日「キリストのうちに共に生きる」

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:6 このように、あなた方は主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。
2:7 キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。
2:8 あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。コロサイの信徒への手紙 2章6節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちの救い主・神の御子イエス・キリストは、十字架の死から三日後の日曜日、旧約聖書の預言とご自分の約束通り、復活されました。その同じ日曜日である今年最初の主の日の今日、このように皆で一緒に礼拝を捧げて始められることを、心から神に感謝致します。

 私たちは、今朝のこの礼拝を新年礼拝として捧げています。そこで、当伝道所に連なる私たちは、今年、神の前に如何に歩むのかを、ご一緒に聖書から学びたいと思います。

 昨年の12月、伝道所委員会は、今お読みしました中のコロサイ人への手紙2:7に基づき、今年の教会標語を、週報のおもてに記しましたように「キリストのうちに共に生きる」と定めまし。

 当伝道所は、大事な教会運営を牧師と長老とで成る小会と呼ぶ会議で行い、また中会や大会という上級会議にも長老を議員として派遣できるために、長老を選出し、教会設立というものを目指して歩んで来ました。しかし、教会員の転出や転会があり、またコロナ禍が数年続き、教会設立ができないで来ました。とはいえ、伝道所委員の方々は大事な本を皆で続けて勉強され、教会設立に備えておられます。本当に感謝なことです。

 教会設立への祈りと熱意は持ちつつ、しかし今朝は、キリストの霊的な体である教会に連なる者として、今年の教会標語「キリストのうちに共に生きる」という基本的なことを学び、確認したいと思います。

 もう一度、コロサイ2:7を読みます。「キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、溢れるばかりに感謝しなさい。」

 ここは、とても大切なことを幾つか教えています。その中から今朝は三つの点を取り上げます。

 その第一点は、どんな場合にも私たちが「キリストに結び付いて」生きることの大切さです。

 7節に「キリストのうちに」とあり、実は3節にも「キリストのうちに」とありました。また6節や10、11節には「キリストにあって」とあります。これは直訳しますと、「キリストの内に」となります。

 更に言いますと、7節の「溢れるばかりに感謝しなさい」という所にも、古いギリシア語写本の中には「彼のうちに」、つまり「キリストのうちに」という言葉の付いているものが沢山あります。

 実は「キリストのうちに」という表現は、使徒パウロがよく使った大変重要なものであり、その意味は「キリストに結び付いて」ということなのです。

 つまり、私たちがクリスチャン、またキリストの教会の一員として考え、語り、色々なことに携わって生きる上で、常に「キリストに結び付いていること」が如何に大切かを教えているのです。そして実際、これはとても大切なことです。

 私たちは、よほど自覚していませんと、つい自分の限られた狭い経験やこの世的人生観、価値観で物事を考え、判断し、行動し、またそれにより他の人を評価しかねません。

 パウロがこの手紙を送りました紀元1世紀のコロサイ教会には、例えば、2:21にありますように「つかむな、味わうな、さわるな」といった、自分がずっと馴染んで(なじんで)来た古い宗教的な定めや習慣を、自分では気付かないまま、すごく大事にしている人たちがいました。すると彼らは、これらの定めや習慣を守らない人たちを見ると、非常識に思えて、つい顔をしかめ、非難しかねませんでした。

 しかし、これらの定めは、イエス・キリストの愛や真実、聖さ(きよさ)に満ちた教えと何の関係もなく、キリストに結び付いているものではありません。とはいえ、往々にしてこういうことが信徒間につまらない亀裂を生じさせ、その結果、求道者の方々を躓(つまず)かせ、健全な教会形成を妨げ、また信徒自身も霊的に成長できず、神の栄光を汚しかねません。

 言い換えますと、主イエス・キリストに結び付いていることで、私たちは、感謝なことにキリストに似ることを許され、霊的に人格的に正しく豊かに成長させて頂くことができるのです。また何が真(しん)に神の御心であり、神に喜ばれるのかを見極め、わきまえ、この世にありながらも教会が天国の雛形(ひながた)として愛と真理の帯で結ばれ、キリストの芳しい香りを放ち、ますます建て上げられていくことも可能となります。これは何と大切であり、何と素晴らしいことでしょうか。これが一つの点です。

 大切な二つ目の点に進みます。それは、キリストに「堅く」結び付いていることです。

 実は、7節で「根ざし」と訳されている元のギリシア語には、「堅く根ざし」というニュアンスがあります。またその後にも「教えられたとおり信仰を堅くし」とあり、再び「堅く」という言葉が来ています。

 ですから、キリストに結び付くといっても、ただ抽象的・観念的に、ゆるく、ぼんやりと、何となくではありません。そうではなく、聖書でご自分をハッキリ啓示しておられる救い主イエス・キリストに、正しい聖書知識とより十分な教理知識に基づき、感謝と愛、そして堅い信仰と堅い意志をもって、自覚的に結び付いていることが、とても大切なのです。

 従って、私たちは「自分はクリスチャンだ」とただ思うとか、他の人にそのように表明するだけでは、十分ではありません。7節で言われていますように、繰り返し「私はキリストのうちに、今、本当に堅く根ざして生きているだろうか、またキリストと結び付いて自分の全人格と全人生を主イエス・キリストによって建てられようとしているだろうか」と問うことがとても大切です。そして、御言葉で教えられる通りに、信仰を更に堅固なものにし、罪と永遠の悲惨から救われ、神に愛され、神の子供とされ生かされていることに、「溢れるばかりに感謝して今生きているだろうか」と、自分に問いかけ、できれば、それにハッキリ「はい、そうです」と答えられるように、2026年を歩むことができれば、と思います。

 最後、三つ目の点を学んで終ります。何でしょうか。

 今年の教会標語の中に「共に」とありますように、主イエス・キリストに私たち皆が「共に」結び付いていることです。この点がとても大切です。

 関連聖句のコロサイ人への手紙2:7に、「共に」という言葉は、直接出ては来ません。しかし、聖書は旧約・新約を通じて、常に信仰共同体に、つまり、教会に向けて書かれていますので、「共に」という意味合いが常にあります。

 これは、実はとても大切なことです。真(まこと)のクリスチャンは決して一匹狼の信者ではなく、またそうであってはなりません。私たちクリスチャンは、教会の中で自分だけを別枠に置いてはなりません。考えや意見の違いは当然あります。しかし、根本的には「共に」イエス・キリストによって救われ、「共に」永遠の神の子供、神の家族にされた者です。このことが、教会員皆の根底にあります。この点を今朝、私たちは改めて夫々、キチンと自分自身に教育したいと思います。

 そして、この根本的な共通の土台の上に、今現在と今後の私たちのあり方や生きる目的についても、神にハッキリ教えられています。それは、どんな目的でしょうか。

 根本的なことを言いますと、ウェストミンスター小教理問答の問1が教えていることです。すなわち、「人間の主要な目的は、神の栄光を讃え、永遠に神を喜ぶこと」です。

 「神の栄光を讃え」とある所は、以前の翻訳のように「神の栄光を現わし」と取ることも可能です。Ⅰコリント10:31は次のように私たちに教えていますね。「あなた方は、食べるにも飲むにも、何をするにも、全て神の栄光を現すためにしなさい」と。

 そして私たちはまた色々なことを通して、常に神ご自身を喜ぶのです。食事をしても、単に「あぁ、美味しい」と言って喜ぶだけでなく、「神様、ありがとうございます!」と言って、「共に」神に感謝し、「共に」神を喜ぶのです。

 次に、より身近で具体的なことの一つを言いますと、私たちクリスチャンまた教会員は、キリストによる永遠の命の祝福を、どんな時にも「共に」分ち合い、「共に」祈り、賛美し、ローマ人への手紙12:15が、「喜んでいる者たちと<共に>泣き、悲しんでいる者たちと<共に>泣」く」と教えますように、互いに寄り添い、「共に」歩むためにも召されているのです。これが神の御心(みこころ)なのです。何と尊いことでしょうか。

 様々な困難や試練、また信仰上の戦いの尽きないこの世に、私たちは今、生きています。ですからこそ、私たちは一層自覚的に励まし合い、支え合い、またもっともっと多くの隣人の永遠の救いのためにも、「キリストのうち共に生き」たいと思います。

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