2025年12月28日「新年を前にして」
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新年を前にして
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- 田村英典 牧師
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ヨシュア記 1章1節~9節
聖書の言葉
1:1 主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。
1:2 「私のしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、私がイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。
1:3 私がモーセに約束したとおり、あなた方が足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなた方に与えている。
1:4 あなた方の領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。
1:5 あなたの一生の間、誰一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。私はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
1:6 強くあれ。雄々しくあれ。あなたは私が父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。
1:7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。私のしもべモーセがあなたに命じた律法の全てを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。
1:8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていること全てを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。
1:9 私はあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたと共におられるからだ。ヨシュア記 1章1節~9節
メッセージ
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教会の生命である主の日の礼拝(日本キリスト改革派教会 創立20周年記念宣言参照)も、今年は今朝のこの礼拝で終ります。病気や勤務、また最近はインフルエンザのために休まざるを得ない方々も少なくありませんでした。しかし一方では、久し振りに出席できた方もありました。こうして、とにかく教会として52回の礼拝を全て捧げることができました。何と感謝なことでしょう。
あと4日で新年を迎えます。世界情勢の変化と共に、日本国内の最近の政治や経済や風潮など社会情勢に不安を感じ、また個人的なことで不安を覚える人も少なくないと思います。来年はどんな年になるのでしょうか。私たちは、どういう姿勢で新年を迎えると良いのでしょうか。
そこで今朝は、神が古代イスラエルの指導者ヨシュアに言われた御言葉に注目致します。
凡そ3400年前、古代イスラエル民族がモーセに率いられてエジプトを脱出し、その40年後、約束の地カナンに入る直前のことでした。目の前にはヨルダン川が横たわり、ヨシュアは後ろに大勢のイスラエルの民を伴っていました。
聖書は細かい心理描写をしていませんが、この時、ヨシュアが不安だったことは容易に想像できます。
第一に、ヨシュアの大先輩であり、イスラエルをエジプトから導いたモーセは既に死んでいました。ですから、モーセに頼ることはできず、ヨシュアはやはり心細かったでしょう。
第二に、ヨシュアは自分がモーセのような大きな器ではなく、力のないこともよく分っていました。これも不安ではなかったでしょうか。
第三に、後ろにいるイスラエルの民は、何かがあるとヨシュアをモーセと比較し、評価するでしょう。ですから、ヨシュアは自分でも気が付かない内に少し萎縮し、自信を失っていたかも知れません。
第四に、ヨルダン川の向こうに広がるカナンの地には、力の強い民族も待ち受けていました。申命記1:44に「蜂が襲うようにあなた方を追いかけ」とか、詩篇118:12に「蜂のように彼らは私を取り囲んだ」とありますように、古代の人々は強い敵をしばしば蜂に喩えました。カナンの地には、実際、思わぬ所から何度でもしぶとく攻撃して来る蜂のような手ごわい敵がいたのです。
こういうことを重ね合せて考えますと、神に召された職務とはいえ、モーセの後継者として大きな責任を引き継いだ新しい指導者ヨシュアが、不安を抱えていたとしても不思議ではありません。そして、この時のヨシュアは、今この時代のただ中で新しい年を迎える私たちの気持ちと、いくらか重なる点もあるのではないかと思います。
それでは、私たちはどのように新年を迎えると良いでしょうか。それを、今から三千年以上前に生きた一人の信仰者ヨシュアに語られた神の御言葉から少しでも学ぶことができればと思います。
心に留めたい第一のことは、聖書全体を通して何度も言われていますように、神が私たち信仰者と本当にいつも一緒にいて下さることです。
主なる神はヨシュアに断言されました。5節「私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。」
興味深いことに、神はヨシュアに向って「私はモーセと共にいたように」という言葉を加えておられます。単に「あなたと共にいる」ではありません。「あなたがよく知り、尊敬しているあのモーセと共にいたように」と神に言われて、ヨシュアは、神が共にいて下さることをかなり具体的にイメージできたのではないでしょうか。そして、神は事実そういうお方なのであり、今の私たちに対しても同じであられるのです。
私たちに、誰か尊敬する信仰の指導者や大先輩がもしあるなら、「あの優れた信仰の大先輩と神が共におられたように、神は、小さなことですぐへこんでしまいやすい弱虫クリスチャンの私とも、今、本当に共にいて下さるのだ」と具体的に想像してみると良いでしょう。
あるいは、神が使徒ペテロやヨハネやパウロと共におられ、偉大な宗教改革者ルターやカルヴァン、ヒトラー・ナチズムと戦い、38歳で殉教した牧師また神学者のボンヘッファー、20世紀最大の説教者と言われたロイドジョンズと共におられたように、神は本当にこの私と、来年も、いいえ、ヨシュア1:5で言われるように「一生の間」共におられ、「神が私を見放し、見捨てるなど、天地がひっくり返ってもあり得ないのだ」と、是非、ハッキリ確認してみたいと思うのです。
二つ目に進みます。それは、神が私たちに勇気を命じておられることを心に刻み、しっかり覚えることです。
神はヨシュアに、6節「強くあれ。雄々しくあれ」と命じ、7節でも9節でもこれを命じ、更に18節では他の人たちを通してこれを命じられました。そして、このことは聖書全体で命じられています。例えば、パウロはエペソ人への手紙6:10で「主にあって、その大能の力によって強められなさい」と命じ、テモテへの手紙 第二 1:7では「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えて下さいました」と教え、2:1では「私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」と命じました。
私たちクリスチャンは、決して傲慢であってはなりません。けれども、神の真理のためには、神に勇気を願い求め、強く、雄々しくあることが不可欠です。先程、信仰の大先輩として名前を上げた人たちも皆、人の痛み、悲しみのよく分る柔和な人たちでした。しかし、大事な時には、勇気をもって頑として神と人のために生きた人たちでした。
万物を無から創造され、ヨシュア記1:5で「私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。私はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束され、御子イエスを十字架の死から三日目に復活させられた全能の神の故に、私たちは勇気をもって新年を迎え、強く、雄々しく、前進したいと思います。
三つ目は、神の聖(きよ)い戒め、教えを絶えず心に蓄(たくわ)え、それに従い、それを中心に生きることです。
勇気を命じた後、神はヨシュアに言われました。7、8節「私の僕モーセがあなたに命じた律法の全てを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行く所どこででも、あなたが栄えるためである。このみ教えの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。その内に記されていること全てを守り行うためである。その時、あなたは自分がすることで繁栄し、その時、あなたは栄えるからである。」
これは、今日の私たちにとっても同じです。無論、誤解してはなりませんが、私たちは罪の赦しと永遠の救いを得るために、神の戒めを律法主義的に守るのではありません。罪の完全な赦しと永遠の命は、ただ神の御子、主イエス・キリストへの信仰だけで十分です。
そうではなく、7節「あなたが行く所どこででも、あなたが栄えるため」とか、8節「あなたは自分がすることで繁栄し、その時、あなたは栄えるから」と神が言われますように、要するに、私たちが神に祝福され、守られ、ますます感謝の内に神の御心に生きるためなのです。
来年、私たちに何が起こるのか。それは誰にも分りません。私たち自身にもまだ罪の性質が残り、そして罪に満ちたこの世を生きるのですから、困難があるのは当然でしょう。
そこで大切なことは、私たちを永遠のご計画に従って造られ、ただただ主イエス・キリストへの信仰により、罪の赦しと死を超えた究極の祝福である永遠の御国を与えて下さる神から、私たちが絶対に離れないことです。そのために、日々、信仰により神の聖(きよ)い御言葉に生き、神の戒め、命令を守るのです。
ヨハネの手紙 第一 5:3は「神の命令を守ること、それが、神を愛することです」と言います。ですから、私たちも神の命令、御言葉、戒めをしっかり守って生きたいと思います。すると、ローマ人への手紙8:28が「神を愛する人たち…のためには、全てのことが共に働いて益となる」と教えているそのことを、私たちは、何が起りましょうとも、2026年にも主イエス・キリストによって必ず体験させられるでしょう!