2025年12月07日「神、我らと共にいます」

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神、我らと共にいます

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 1章18節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
1:19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
1:21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
1:23 「見よ、処女が身ごもっている。
    そして男の子を産む。
    その名はインマヌエルと呼ばれる。」
   それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
1:25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。マタイによる福音書 1章18節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 今年もクリスマスを待ち望むアドベント(待降節)を迎えています。そこで今朝は、クリスマスに関わる御言葉から信仰を励まされたいと思います。

 マタイ福音書1:18以降を今読みしました。全世界の救い主・神の御子イエスの母となるマリアは、ヨセフと婚約していましたが、一緒になる前に聖霊により身ごもりました。ルカ福音書1:26~38はそれを詳しく伝えています。

 ただ、事情を知らないヨセフは大変悩みます。しかし夜、夢で天使が彼にいきさつを教え、彼は全てを理解して彼女と結婚し、やがて生れた子供にイエスと名づけました。イエスとは、「主は救い」という意味のヘブル語の名前・ヨシュアのギリシア語化したものです。

 イエスについて天使は言います。23節「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは紀元前8世紀の預言者イザヤの預言であり、イザヤ書7:14にあります。預言は見事に成就しました。

 それで、今朝注目したいのは、イエスについて「インマヌエル」と言われている点です。インマヌエルとは、23節「神が私たちと共におられる」という意味のヘブル語です。すなわち、私たちが救い主イエスを心から信じ、依り頼むなら、「神、我らと共にいます」という恵みが本当になるということです。

 これは、具体的にはどういう恵みでしょうか。一つは、私たち信仰者の人生のあらゆる局面で、神が私たちと共にいて下さることです。これは旧約聖書の歴史を振り返ると、よく分ります。

 前にもお話しましたが、これを古代イスラエル民族の先祖、紀元前二千年頃の信仰者アブラハムは本当に体験しました。アブラハムに対して神は創世記12:3「私は、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者を呪う」とまで言われ、彼の生涯を見ますと、神はどんな時にも彼を決して見放さず、絶えず共にいて下さいました。

 その数百年後、長い間、エジプトで奴隷にされていた古代イスラエル民族を救い出すことを、モーセは神に命じられました。その彼に神は出エジプト記3:12「私が、あなたと共にいる」と約束され、苦労の連続でしたが、120歳で死んだ彼の一生もまさにその通りでした。

 モーセの後継者ヨシュアにも神は、ヨシュア記1:5「私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。私はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われました。彼も重責を担い、本当に苦労続きでした。しかし、「私と私の家は主に仕える」(ヨシュア記24:15)とキッパリ断言した彼と、神は生涯共におられました。

 更にその数百年後、神はイスラエルに「恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。私があなたの神だから」(イザヤ書41:10)と言われました。大国の狭間で絶えず脅かされ、非常に困難な状況にあったイスラエルでしたが、神はイザヤ書43:2、4、5でこう言って励まされました。「あなたが水の中を過ぎる時も、私は、あなたと共にいる。川を渡る時も、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。…私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。…恐れるな。私があなたと共にいるからだ。」

 事実、神はイスラエルを守り続け、とうとう約束の救い主・ご自分の独り子イエスをマリアから生れさせ、約束を果たされました。まさに「神、我らと共にいます」ことを歴史は証言しています。

 しかも、これは旧約時代だけではありません。約束の救い主・神の御子イエスが誕生され、父なる神とその御心と御力とを見事に表わし、天の父のご計画に従い、十字架と復活により私たち罪人のために贖いを完成された後の新約時代でも同じです。

 人間は死の力の前に全く無力です。死を生に変えることは人間にはできません。しかし、その死を突き破って甦られたイエスは、ご自分も共におられることを付け加えて、コリントの町で一生懸命伝道していたパウロにこう言われました。使徒の働き18:9、10「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。私があなたと共にいる」と。

 そしてパウロは殉教も意に介さず、驚くべき豊かな働きをし、全ヨーロッパに福音が伝えられて膨大な数の人が真(まこと)の神に立ち返り、救いに与るその土台を据えました。父・子・聖霊なる三位一体の神が共におられたからです。

 マタイ福音書は、弟子たちへの主イエスの次の約束の言葉で終ります。28:20「見よ、私は世の終りまで、いつもあなた方と共にいます。」

 使徒たちの時代の後も、歴史を振り返りますと、真(まこと)の神と救い主イエスを知らない人たちに困難の中でも福音を伝えた多くの宣教師たちや伝道者たちは元より、私たち普通のクリスチャンも「神、我らと共にいます」ということを、色々な時に色々な形で経験しているのではないでしょうか。

 アドベントの今この時、この一年に味わわせて頂いた「神、我らと共にいます」という恵みを、夫々が静かに一つ一つ振り返り、是非、噛みしめたいと思います。とても励まされます。

 さて、イエスを心から信じ、受け入れ、依り頼むことで与えられる「神、我らと共にいます」という約束は、何より私たちの将来のためにあります。第二にそれを確認して終りたいと思います。

 もう一度歴史を少し振り返ります。「将来のために」というこの点を、紀元前7世紀~6世紀の初めにかけて活動した預言者エレミヤの書いたエレミヤ書29:11で、神はこう言われました。「私自身、あなた方のために立てている計画をよく知っている――主の言葉――。それは災いではなく平安を与える計画であり、あなた方に将来と希望を与えるためのものだと。

 エレミヤが活動していた当時、神との契約を破って罪をいっぱい犯していたユダ王国は神に罰せられ、大勢の人が捕虜としてバビロンへ連れ去られました。いわゆる、バビロン捕囚の出来事です。エルサレムに残された人々もそうですし、バビロンへ連れて行かれた人たちは特に絶望し、至る所に涙と泣き声がありました。が、そんな中、彼らに神から来たのが実は先程の御言葉、「私自身、あなた方のために立てている計画をよく知っている――主の言葉――。それは災いではなく平安を与える計画であり、あなた方に将来と希望を与えるためのものだ」でした。彼らはこれにより、将来を信じ、希望を握りしめ、大変な苦難の中でも耐えることができました。

 話を今に戻します。世界はどうなって行くのでしょうか。今、世界は、大国の横暴さが際立ち、国も人も自分第一・自分ファーストを臆面もなく口にし、フェイク・偽(にせ)の情報が流され、煽られ、拡散され、すぐ敵と味方に二分して攻撃し合う。ますます生き辛い大変な時代になっています。

 けれども、実は今までも同じでした。例えば、80数年前の戦争中は常に死と隣り合せで食べ物もなく、どんなに不安だったでしょう。Ⅰコリント10:13が「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません」と言う通り、今だけが特別なのではありません。自分だけが特別なのでもないのです。今だけが、自分だけが、特別だと思いますと、私たちは絶望的になります。でも、そうではないのです。

 大切なことは、何を将来の、いいえ、永遠の希望とするかです。

 私たちは当然、必ずいつか死にます。問題は、死の時と、死の後です。しかし、全能者なる神が私たちと共におられるのであるなら、私たちは死ぬ時も神の御手の中にあるのです。そして死の向こうでも、主イエスが私たち信仰者を本当に迎えて下さるのです。

 十字架にかかられる前に、主イエスが弟子たちに言われた言葉をよく心に留めたいと思います。ヨハネ福音書14:1~3です。「あなた方は心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなた方のために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。私が行って、あなた方の場所を用意したら、また来て、あなた方を私のもとに迎えます。私がいるところに、あなた方もいるようにするためです。」

 言い換えれば、主イエスが私たちのために準備ができた時、私たちは死を迎えるのであり、私たちを迎え入れて下さる時が私たちの死の時なのです。この世での自分の終りというよりも、主イエスが私たちをとうとう天の永遠の家、ご用意下さった永遠の住いに、大歓迎で迎え入れて下さる!それが私たちの死なのです。クリスチャンの死とはそういう時なのです!

 待降節・アドベントのこの今の時、今年一年をよく振り返り、また主イエスがご用意なさり、迎え入れて下さる永遠の天をしっかり見上げ、仰ぎたいと思います。そして旧約聖書の初めから新約聖書の終りまで聖書全巻を上げて私たちに知らせようとしている「神、我らと共にいます」というこの素晴らしい恵みを、私たち一人一人がしっかり確認し、よく噛みしめたいと思います。

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