聖書の言葉 16:7 主(しゅ)はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」サムエル記上 16章7節 メッセージ 神が私たちの心を見ておられることが、私たちにとって如何に幸いかを、今日から暫く学びたいと思います。 30年位前でしょうか、「心の時代」ということが言われた時期がありました。物質的豊かさや便利さだけを追い回す現代文明の限界と負の面に皆が気づき、心を大切にするようになることは良いことだと思ったものです。ただ、現実には、この点に社会全体はそれほど取り組んで来ませんでしたし、あまり進んでいないように思います。心にゆとりをとも言われますが、これも今の厳しい社会ではなかなか難しいですね。 ところで、聖書が心を大切にと言う場合、もっと根本的に私たちの人格と倫理性を造り主なる神との関係、つまり、宗教性において深く考え、大切にすることを教えています。心は人格の座です。知性も感情も意志も全てここにあり、ここから私たちの考えも言葉も行動も出て来ます。とにかく、そういう心を神が見ておられることが、本当は私たちにとってどんなに幸いかを学びたいと思います。 神が私たちの心の中まで見ておられることは、正直な所、怖いです。私たちの心には、嘘やごまかし、人への妬みや憎しみ、蔑みなど、人に知られたくない恥ずかしい罪深いものが、沢山あるからです。自分をよく知らない子供なら別ですが、大人はこういう自分を当然知っています。そして私たちの心は神の目には裸です。ヘブル4:13は言います。「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」よく考えますと、心臓が縮みます。 しかし、聖書は決して私たちを脅かすための書物ではなく、逆に私たちを救おうとする救いの書物です。確かに、神はやがて私たちの隠れたことも全て公平に裁かれます。罪のためにこの世は公平ではありません。むしろ余りにも不公平なことが多いです。しかし、神は違います。人は皆、死んだ後、公平な神の裁きの座に立つことになります。沢山持っている恵まれた人は、持っていない人より当然厳しく裁かれます。誰も言い逃れできません。 しかし、天の父なる神はまことに憐れみ深いお方です。罪はお嫌いですが、神はこんな私たち人間をなお愛し憐れみ、ご自分の愛(いと)しい独り子を救い主イエスとしてこの世に遣わされました。そしてイエスは、全世界の罪を背負い、私たちが本来自分の罪のために受けるべき永遠の裁きを十字架で私たちに代って皆受けられ、それだけでなく、私たちが本来守るべきなのに守れない神の清い戒め、律法を私たちに代って全て完全に守って下さいました。ですから、心からイエスを救い主と信じ、受け入れ、依り頼むなら、私たちはあらゆる罪を赦され、清められ、神の子とされ、永遠の救いに与ります。私たちは決して絶望することも恐れる必要もありません。 以上のことを確認した上で、神が私たちの心を見ておられることが如何に幸いかを、今日は一つの点でだけお話します。それは、このことが不信仰や罪深いことから私たちを少しでも守ることです。 神が私たちの心を見ておられると思いますと、誰でも罪深いことを、考えたり口にしたり行うことに、ブレーキが掛からないでしょうか。実行に移さなければ心で何を考えても罪ではないと言う人もいます。確かに法的にはそうです。人間の作った法律は心まで裁きませんし、裁けません。しかし神の御言葉、聖書では違います。例えば、イエスはマタイ5:28「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、心の中で既に姦淫を犯した」と言われます。私たちは何より自分の心を注意すべきことを教えられます。しかし、まさにそのことが感謝なのです。神を畏れ、自分の心を注意することほど、私たちの人間性を守り、人格を高め、永遠の神の国に相応しい者へと清めるものはありません。 上辺を繕って、人をごまかすことできます。しかし、神はごまかせません。最初に読みましたⅠサムエル16:7も「人は上辺を見るが、主は心を見る」と言います。また罪深いことをしますと、それは必ず自分に戻って来ます。ガラテヤ6:7は言います。「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」 ですから、神が私たちの心を見ておられることを覚えて神を畏れ、救い主イエスを堅く信じ、依り頼み、次に自分の心を律し、主イエスに私たちの心を支配し導いて下さることを祈りつつ聖書の教えを心に留めて努力することは、決して無駄ではありません。それどころか、それは良い癖、良い習慣となり、長い年月の間に確実に私たちの人格、人間性を清め、高め、年を追う毎に大きな祝福となります。そして、人生最後の死を迎える時、私たちはお世話になった多くの人に感謝し、父なる神と主イエス・キリストと聖霊の愛と支えをひしひしと身に覚えつつ、救いの確信と平安の内に、永遠の天の国への旅立ちを許されるでしょう。 関連する説教を探す 2025年の祈祷会 『サムエル記上』
神が私たちの心を見ておられることが、私たちにとって如何に幸いかを、今日から暫く学びたいと思います。
30年位前でしょうか、「心の時代」ということが言われた時期がありました。物質的豊かさや便利さだけを追い回す現代文明の限界と負の面に皆が気づき、心を大切にするようになることは良いことだと思ったものです。ただ、現実には、この点に社会全体はそれほど取り組んで来ませんでしたし、あまり進んでいないように思います。心にゆとりをとも言われますが、これも今の厳しい社会ではなかなか難しいですね。
ところで、聖書が心を大切にと言う場合、もっと根本的に私たちの人格と倫理性を造り主なる神との関係、つまり、宗教性において深く考え、大切にすることを教えています。心は人格の座です。知性も感情も意志も全てここにあり、ここから私たちの考えも言葉も行動も出て来ます。とにかく、そういう心を神が見ておられることが、本当は私たちにとってどんなに幸いかを学びたいと思います。
神が私たちの心の中まで見ておられることは、正直な所、怖いです。私たちの心には、嘘やごまかし、人への妬みや憎しみ、蔑みなど、人に知られたくない恥ずかしい罪深いものが、沢山あるからです。自分をよく知らない子供なら別ですが、大人はこういう自分を当然知っています。そして私たちの心は神の目には裸です。ヘブル4:13は言います。「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」よく考えますと、心臓が縮みます。
しかし、聖書は決して私たちを脅かすための書物ではなく、逆に私たちを救おうとする救いの書物です。確かに、神はやがて私たちの隠れたことも全て公平に裁かれます。罪のためにこの世は公平ではありません。むしろ余りにも不公平なことが多いです。しかし、神は違います。人は皆、死んだ後、公平な神の裁きの座に立つことになります。沢山持っている恵まれた人は、持っていない人より当然厳しく裁かれます。誰も言い逃れできません。
しかし、天の父なる神はまことに憐れみ深いお方です。罪はお嫌いですが、神はこんな私たち人間をなお愛し憐れみ、ご自分の愛(いと)しい独り子を救い主イエスとしてこの世に遣わされました。そしてイエスは、全世界の罪を背負い、私たちが本来自分の罪のために受けるべき永遠の裁きを十字架で私たちに代って皆受けられ、それだけでなく、私たちが本来守るべきなのに守れない神の清い戒め、律法を私たちに代って全て完全に守って下さいました。ですから、心からイエスを救い主と信じ、受け入れ、依り頼むなら、私たちはあらゆる罪を赦され、清められ、神の子とされ、永遠の救いに与ります。私たちは決して絶望することも恐れる必要もありません。
以上のことを確認した上で、神が私たちの心を見ておられることが如何に幸いかを、今日は一つの点でだけお話します。それは、このことが不信仰や罪深いことから私たちを少しでも守ることです。
神が私たちの心を見ておられると思いますと、誰でも罪深いことを、考えたり口にしたり行うことに、ブレーキが掛からないでしょうか。実行に移さなければ心で何を考えても罪ではないと言う人もいます。確かに法的にはそうです。人間の作った法律は心まで裁きませんし、裁けません。しかし神の御言葉、聖書では違います。例えば、イエスはマタイ5:28「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、心の中で既に姦淫を犯した」と言われます。私たちは何より自分の心を注意すべきことを教えられます。しかし、まさにそのことが感謝なのです。神を畏れ、自分の心を注意することほど、私たちの人間性を守り、人格を高め、永遠の神の国に相応しい者へと清めるものはありません。
上辺を繕って、人をごまかすことできます。しかし、神はごまかせません。最初に読みましたⅠサムエル16:7も「人は上辺を見るが、主は心を見る」と言います。また罪深いことをしますと、それは必ず自分に戻って来ます。ガラテヤ6:7は言います。「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」
ですから、神が私たちの心を見ておられることを覚えて神を畏れ、救い主イエスを堅く信じ、依り頼み、次に自分の心を律し、主イエスに私たちの心を支配し導いて下さることを祈りつつ聖書の教えを心に留めて努力することは、決して無駄ではありません。それどころか、それは良い癖、良い習慣となり、長い年月の間に確実に私たちの人格、人間性を清め、高め、年を追う毎に大きな祝福となります。そして、人生最後の死を迎える時、私たちはお世話になった多くの人に感謝し、父なる神と主イエス・キリストと聖霊の愛と支えをひしひしと身に覚えつつ、救いの確信と平安の内に、永遠の天の国への旅立ちを許されるでしょう。