2025年11月09日「天の御国(みくに)は誰のもの?」
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天の御国(みくに)は誰のもの?
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 19章13節~15節
聖書の言葉
19:13 その時、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると、弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。私のところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」
19:15 そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去っていった。マタイによる福音書 19章13節~15節
メッセージ
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今朝、私たちが学びますマタイ福音書19:13以降の伝える出来事は、マルコ福音書10:13以降とルカ福音書18:15以降も伝えています。福音書を書いたマタイもマルコもルカも、これは、是非、伝えたいと思ったのでしょう。「天の御国は誰のものか」と言えば、子供のような者たちのものであり、ルカ福音書の表現も含めますと、幼子のような者たちのものだということです。
では、具体的にはそれは誰のことでしょうか。その前に、この時の状況を見ておきたいと思います。
神の御子イエスは、多くの大切な教えと神の力を示された北のガリラヤを去って南のユダヤへ来られ、人類の救いのためにご自分の命を献げるエルサレムへの途上にあり、緊迫した空気の中にありました。しかし、そんな中、19:13「イエスに手を置いていただくために、子供たちが御許(みもと)に連れて来られ」ました。イエスが真理を教え、神の力ある業(わざ)を行われ、そして愛と慈しみに満ちた素晴らしい教師だという評判は、ユダヤにも広がっていました。ですから、人々は自分の子供をイエスに祝福していただきたくて連れて来たのでした。真(まこと)の神を信じ、子供を真(しん)に愛する親なら、当然でしょう。親心ですよね。
ところが、13節「弟子たちは連れて来た人たちを叱」りました。どういうことでしょう。一体、弟子たちは何故、子供を連れて来た親たちを叱ったのでしょうか。恐らく、エルサレムに向う緊迫した空気の中であったため、彼らは主イエスを気遣い、「先生を煩わせ、邪魔してはいけない」と、彼らなりに配慮したのだと思われます。
けれども、イエスは弟子たちに14節「子供たちを来させなさい。私の所に来るのを邪魔してはいけません」と言われました。並行箇所のマルコ福音書10:14によりますと、イエスは「憤って」そう言われました。それぐらい強い思いがイエスにはおありだったのです。
マタイ19章に戻ります。そのあと、イエスは、14、15節「天の御国はこのような者たちのものなのです」と教え、「手を子供たちの上に置いてから、そこを去って行かれ」ました。
手を置くとは、子供たちの頭の上に手を置き、祝福することです。並行箇所のマルコ福音書10:16はより詳しく、イエスは「子供たちを抱き」、彼らの上に手を置いて祝福されたと伝えています。イエスは子供たちを一人一人優しく抱っこし、手を置いて祝福されたのでした。子供たちへの主イエスの温かい大きな愛が伝わって来ますね。
話を戻します。結局、天の御国は誰のものなのでしょうか。誰が天の御国へ入れられるのでしょうか。
それはまず第一に、イエスによる罪の赦しと永遠の救いを心から願う信仰者たちの子供です。
聖書が伝えるこの時は、イエスに抱かれ、手を置かれて祝福された子供たちですが、今日の改革派教会で言いますと、親の真実な信仰により幼児洗礼を受け、神の教会の一員とされた、いわゆる契約の子供たちと言えるでしょう。
分別年齢に達して彼らが自分の意志でイエスを拒み、神の家である教会を離れ去るなら、話は別です。しかし、子供たちがイエスを拒まず、イエスを信じ、受け入れ、神の教会を愛し、教会が好きで教会につながっているなら、天の御国は彼らのものなのです。イエスは、ご自分が抱っこして祝福された子供たちについてハッキリこう言われます。14節「天の御国はこのような者たちのものなのです。」
ところで、すぐ分かりますように、これは子供たちのことだけではありません。イエスに「このような者たち」と言われた大人もいます。では、それはどんな人たちでしょうか。次にそれを学びたいと思います。
第一に、それは自分を本当に低くする信仰者たちのことです。
実はこの点を、イエスは18:3、4で既にこのように教えておられました。「まことに、あなた方に言います。向きを変えて子供たちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、誰でもこの子供ように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」
無論、幼子にも罪があり、時々偉ぶってみせたりします。しかしそうであっても、自分よりはるかに力や知識のある大人に勝てないことは分っています。子供は、自覚的に自分を低くすることはできませんが、親に強く注意されたり叱られたりしますと、謝って、従います。
大事なことは、神と人の前で決して奢らず、高ぶらず、自分の罪深さや不信仰や弱さをよく自覚し、自分を低くし、真(しん)に謙虚であることです。天の御国はそういう信仰者たちに約束されています。イエスは言われました。マタイ5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
第二に、それは神の前で素直な信仰者です。
念のために言います。子供は罪がないとよく言われます。しかし、これは神の御言葉・聖書の教えではありません。先程も言いましたが、子供にも罪の性質のあることは明白です。これを原罪と呼びますね。
実際、親も周りの誰も教えていませんのに、いつの間にか、子供も嘘をつくようになり、ごまかす術(すべ)も知っています。
他人の物を自分の物にし、意地悪や乱暴もします。
総合的判断ができないため、愚かなことや危険なことを行ない、他人の気持を配慮せず、ひどいことを言って人を傷つけることもあり、わがままで自己中心な所が多いです。子供は純真無垢で全く罪がない、というのではありません。
とはいえ、子供はまだ素直です。罪の性質はありますが、大人と比べますと、子供は素直です。大人は、色々経験し、失敗もあり、疑い深く、素直ではありません。その点、子供はやはり素直ですね。親の教えや注意に素直です。
怖い時には大声で泣き、逃げ回ります。
その反対に、嬉しい時は、飛び跳ね、走り回り、体中で嬉しさを表わします。歯が生え変わる時期などには、抜けた自分の歯を嬉しそうに宝物のように人に見せたりします。
この罪の世では、マタイ福音書10:16のイエスの教えのように、蛇のような賢さと知恵が必要です。エペソ人への手紙4:14も「私たちはもはや子供ではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすること」がないようにと、注意します。
しかし、天の父なる神とそのきよい御心、ただ御子イエスへの信仰による罪の赦しと永遠の命の約束、神のご支配と御言葉の教えには、是非、幼子のように素直でいたいと思います。
第三に、それは天の父なる神と御子イエス、そして聖霊なる神に、心から信頼している信仰者と言えます。
通常、幼子は見事に親を信頼しています。何かのことで親にひどく叱られて泣いても、眠ったあとや次の日には、すっかり忘れて親に甘えます。
電車やバスの中でも、親が自分のそばにいるなら、安心し切っています。また親が自分にくれる物は何でも受け取ります。疑いません。
旅行に行っても、お金のことや行き先についても全く心配しません。親がお金を払い、親が行き先にちゃんと連れていってくれることを、信じて疑いもしません。
そして疲れますと、いつ、どこであっても、親のそばや親の腕の中でスヤスヤ眠ります。信頼し切っているんですよね。
この罪の世では、私たちはしばしば信仰を試されます。主イエスご自身もマタイ4章が伝えますように、私たちの救いのためのお働きの最初に、悪魔・サタンの試みを受けられました。しかし、イエスは聖書の御言葉により、天の父なる神に信頼され、また全生涯を通じて従順であられ、そうやって全てに勝利されました。天の御国は、子供のように神に信頼する信仰者のものなのです。
弟子たちが親を叱り、その弟子たちにイエスが憤られるという緊張の中で、今朝の聖書箇所は始まりました。しかし、イエスは子供たちの姿を通して、とても大切なことを再び私たちにお教え下さいました。
まず私たちは、幼子に対する主イエスの救いの熱い愛をしっかり覚え、改めて彼らを教会の中でも家でも本当に大切にしたいと思います。
また改めて今この時から、第一に決して高ぶらず自分を低くし、第二に神とその教えに心を開いて本当に素直であり、第三に幼子のように神に全く信頼する信仰者でありたいと思います。
主イエスが、御霊を通して、子供たちと私たち一人一人に手を差し伸べ、大いに励まし、天の御国に確実に与らせて下さるように、心から祈りたいと思います。