2025年09月14日「躓きを恐れよ」
問い合わせ
躓きを恐れよ
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 18章6節~9節
聖書の言葉
18:6 私を信じるこの小さな者たちの一人を躓かせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められる方がよいのです。
18:7 躓きを与えるこの世は災いです。躓きが起こるのは避けられませんが、躓きをもたらす者は災いです。
18:8 あなたの手か足があなたを躓かせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足で命に入る方が、両手両足揃ったままで永遠の火に投げ込まれるより良いのです。
18:9 また、もしあなたの目があなたを躓かせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目で命に入る方が、両目揃ったままゲヘナの火に投げ込まれるより良いのです。
マタイによる福音書 18章6節~9節
メッセージ
関連する説教を探す
今朝も、聖書を通して神の御声に耳を傾けたいと思います。
今お読みしましたマタイ18:6~9で、イエスは何度も躓きに言及され、特に躓かせることの恐ろしさをお教えになります。聖書では、「躓かせる」とは、人に「罪を犯させる。信仰を断念させる。背信させる」などを意味します。すなわち、造り主なる真(まこと)の神から誰かを遠ざけ、最後には悲惨な永遠の死と滅びに人を至らせることであり、極めて罪深い恐ろしい行為なのです。ですから、イエスは躓きについて大変厳しく警告されます。私たちも心して主イエスの警告に耳を傾けたいと思います。
さて、イエスが第一に警告されることは、私たちが他の人を躓かせることの罪深さであり、恐ろしさです。イエスは言われます。6、7節「私を信じるこの小さな者たちの一人を躓かせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められる方が良いのです。」
これは、18:1から分りますように、イエスに質問をしたその弟子たちへのイエスの教えの続きです。従って、「私を信じるこの小さな者たち」とは、イエスを今信じ、信頼して弟子たちの真ん中に立っている一人の子供を初めとして、幼子のように素朴な普通のクリスチャンのことでしょう。
しかし、このような素朴な人たちを躓かせる者は、6節「大きな臼を首にかけられて、海の深みに沈められる方が良い」と、イエスはかなり誇張した表現で、事(こと)の重大さをお教えになります。
「大きな臼」は、直訳しますと「ロバのひき臼」です。当時、家庭では婦人たちが小さな臼で穀物をひくのが普通でした。しかしイエスは、ロバに引かせて回転させる重い石臼を例に出し、それを首にかけられて「海の深みに沈められる方が良い」とまで言って、人を躓かせることがどんなに罪深く、恐ろしいことであるかを強調されます。
続いて、イエスは7節で、人に「躓きを与えるこの世は災い」だと言われます。この世は本質的に、神を無視し、神に背く罪の世です。従って、「躓きが起こるのは避けられ」ません。とはいえ、躓きをもたらすその人は「災い」だ、とイエスは断言されます。
ここで「災い」と訳されている元のギリシア語(ウーアイ)は、<身の毛がよだつように恐ろしい!>という非常に強い意味の言葉です。このように、7節でも、人を躓かせることがどんなに罪深く、恐ろしいことかをイエスが強調しておられるのがよく分ります。
そこで、私たちもこのことを今、改めてよく考えたいと思います。
私たちはどういう点で人を躓かせるでしょうか。一つは言葉でしょう。
申命記4:2が命じる通りに私たちクリスチャンが聖書の神の言葉に何一つ加えず、また何一つ差し引かず、福音を忠実に語りましても、とても残念ですが、躓く人は躓きます。これはやむを得ません。私たちは福音を曲げることはできません。
しかしながら、不用意に私たちが口にした軽率な言葉とか、低俗で品も礼儀もない雑な言葉、また愛や思いやりに欠け、少々乱暴で冷たい棘のある言葉などにより、周りの人が躓き、真(まこと)の神を拒むということはないでしょうか。
二つ目は、私たちの行いや態度です。
キリスト教が真実なものかどうかを、人は私たちクリスチャンをよく観察して判断します。
ヤコブ1:19は「人は誰でも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい」と教えます。しかし、私たちが人の話に耳を傾けず、一方的に喋り、また傲慢で短気で怒りやすいなら、どうでしょうか。ずるいことやごまかしを私たちが行い、また皆が協力し合っているのに、自分の嫌いなことからはスーッと逃げるような行動を近所付き合いや職場や学校でしていたなら、どうでしょうか。
従って、私たちが人を躓かせ、人の求道心を潰し、人をイエス・キリストと父なる神から遠ざけていないかと自らに問い、思い当ることがあるなら、直ちに主の前に平伏し、「主よ、私をお赦し下さい!イエス・キリストの芳しい香りを放ち、少しでも神の教えを言葉と生活で飾れるように、私を聖霊で支配して下さい」と心から祈りたいと思います。
主イエスの警告の二つ目に進みます。それは、私たちが自分で自分を躓かせることの恐ろしさです。
主は言われます。8、9節「あなたの手か足があなたを躓かせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足で命に入る方が、両手両足揃ったままで永遠の火に投げ込まれるより良いのです。また、もしあなたの目があなたを躓かせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目で命に入る方が、両目揃ったままゲヘナの火に投げ込まれるより良いのです。」
このことを、イエスはマタイ5:29、30で、順序は違いますが、ほぼ同じように教えておられました。そこは十戒の第七戒「姦淫してはならない」についての教えであり、性的な罪についての警告でしたが、マタイ18:8、9ではもっと広く適用される教えとなっています。
それにしても、主イエスの言葉は何と重いでしょう。自分の手や足や目が自分に罪を犯させ、自分を永遠の地獄に落とす位なら、「その片方を切って捨て、あるいは、えぐり出して捨てなさい」とイエスは言われます。明治時代の大変真面目なあるクリスチャンの男性は、自分の右手を火で焼いたといいます。
とにかく、私たちは皆、自分で自分を躓かせ、自分で自分の信仰を潰し、自分を地獄に落とす危険性のあることを、決して忘れてはなりません。
では、私たちはどのようにすれば良いのでしょうか。
一つのことは、手や足や目を通して罪の誘惑をほんの僅かでも感じるなら、直ちにその場から離れ、その状態から逃げることです。物理的にキッパリ遠ざかることです。
今、インターネットによる色々な犯罪への誘いに、若い人たちがよく引っかかっているといいます。しかし、罪の誘いは、若者だけでなく、幼い子供にもシニア世代の者にも高齢者にも来ます。例外はありません。そしてサタンのやり方は極めて巧妙で危険です。
ですから、罪の誘惑をほんの僅かでも感じるなら、手や足や目だけでなく、<体ごと>そこから離れることが何より重要です。<切って捨てる、えぐり出す、捨てる>と訳されています元のギリシア語は皆、キッパリと<切って捨てる、えぐり出す、捨てる>というニュアンスの言葉になっています。是非、私たちはそうしたいと思います。
自分自身による躓きに負けないための二つ目は、他のもっと重要で尊いことに自分の全身全霊をグッと傾けることです。
私たちが自分で自分を躓かせる時というのは、大抵の場合、しなければならないことが何か特にあるわけでなく、暇に思える時です。すると心に緩みが生れ、サタンはそこを狙い、私たちの信仰の帯を緩めさせ、罪に対して無防備にさせるのです。
大切なことは、それに気付く時、どうするかです。
気付いたなら、直ちに私たちは心を整え、神に喜ばれ、また人の役に立てる大切なことは何かと、しっかり思い巡らすことが重要です。そうすると、色々なことが心の中に浮かぶと思います。例えば、週報には毎回、健康の優れない方々や彼らを支える方々、手術を受ける方、受けた方、入院中や入所中の方々のことが書かれています。彼らは皆、私たちの執り成しの祈りを必要としているのです。
また求道中の方や客員の皆様、このところ教会から離れている方々がおられます。また、私たちの伝道所が所属します四国中会内の、今、牧師のいない(無牧の)教会や伝道所、外国から来て下さっている宣教師の先生方、三位一体の神とその聖なる御心を、正しく十分に教え、語ることのできる牧師を養成する大切な神学校のことなど、祈りの課題は山ほどあります。
孤独や不安、淋しさ、痛み、苦しみの中にある方々に温かいメールや手紙を送ることも、何と尊く大切なことでしょうか。これらのことに自分の思いを傾け、時間を用いますと、私たちには手や足や目で愚かな罪を犯したり、自分の信仰を駄目にしている暇がありません。
それと、三つ目のことを極簡単に申し上げたいと思います。
それは、神が私たちを見ておられ、また私たちの主イエス・キリストが御霊によって、私たちのすぐ傍らにおられ、私たちをご覧になっておられることを、キチンと思い起すことです。詩篇139:1、2は言います。「主よ、あなたは私を探り、知っておられます。あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。」
とにかく、人に対するものであれ、自分自身に対するものであれ、私たちは躓きを本気で恐れる必要があります。恐れないことほど、恐ろしいことはありません。
それと同時に、私たちが躓きを取り除こうと真剣に考え、努める時、私たちは自分を周りの人への大切な福音の証しに役立つ者とされ、また必ず自分自身を清められ、神に喜ばれる者とされ、祝福されます。主イエスの教えはどんなに厳しくても、そこには必ず恵みがあります!
改めて今朝、主に心から感謝し、新しい決意をもって、今日からのこの一週間も、主の清い民として、ご一緒に支え合い、祈り合って歩みたいと思います。