2020年09月20日「賢い人と愚かな人」

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聖句のアイコン聖書の言葉

マタイ
7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。
   (新改訳聖書 2017年度版)
マタイによる福音書 7章24節~27節

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 伝道礼拝の今朝は、マタイの福音書7:24~27のイエス・キリストの教えから、少し自由にお話させて頂きます。

 ここは、岩の上に家を建てた賢い人と砂の上に家を建てた愚かな人の譬えであり、分り易いですね。しかし、実はここは私たちの人間性と生き方を鋭く問い、しかも私たちの永遠の行き先にも関係する非常に重要な教えです。心して学びたいといます。

 幾つか大事な点を教えられます。第一にイエスによりますと、神の前で賢い人か愚かな人かの違いは普段は分りません。従って、私たちは自分に騙されてはならないということです。

 岩の上の家も砂の上の家も、天候が良い時は何も変りません。チャンと建てられ、よく機能し、両者に遜色はありません。神の前に賢い人も愚かな人も、順調な時は変りません。愚かな人も元気です。よく笑い、人に優しく、気前も良い。違いはありません。しかし、それで安心していてはなりません。厳しい試練に見舞われると、違いが露(あらわ)になるからです。

 賢い人の建てた家に、大雨や洪水や強風が襲わないのではありません。試練は同じように臨みます。でも、持ちこたえます。倒れません。25節「岩の上に土台が据えられて」いるからです。

 一方、愚かな人の建てた家は、重大な欠陥が露になります。固い土台がないため、27節「倒れ、…その倒れ方はひどい…。」壊滅的な打撃を受けます。

 ところが、物事が順調に運んでいる時には、賢い人か愚かな人かの違いは分りません。従って、主イエスによれば、私たちは自分に騙されてはならないということです。これが第一の点です。

 では、何故こんな違いが生れるのか。そこで次に両者の違いを見ます。三つあります。

 第一に、愚かな人は短気です。愚かな人は大抵せっかちです。大切な家を建てるのですから、将来起こるかも知れない色々な場合を想定し、慎重に場所を選ぶべきですが、この人は26節「砂の上」を選びました。どうしてか。手っ取り早いからです。早く結果を見たい。待てない。短気で、感情によって判断し、行動しています。ここにこの人の根本的な欠陥があり、愚かさの一つがあります。

 一方、賢い人は短気ではありません。雨、洪水、風など、将来起りくる色々な問題を考え、場所をよく調べ、岩を土台として家を建てました。慌てず、感情に走らず、冷静で理性的に考え、自分をコントロールします。感情の言いなりになることを自分に許しません。

 第二に、愚かな人は結構傲慢で自分を過信しています。大事な家を建てるのですから、その道の専門家にまず教えを仰ぐべきでした。せめて同じように家を建てようとしているもう一方の人に意見を聞く謙虚さがあれば、こんな失敗はしません。でも、結構自信家だったのでしょう、人に聞きませんでした。一回限りの人生で、しかも永遠の行き先にも影響するという点から言いますと、傲慢と自己過信ほど、危険で愚かなものはありません。

 一方、賢い人は専門家や人の意見によく耳を傾け、参考にします。自分の知識や経験を過信しません。謙虚です。ただ一度限りの人生のその結果、永遠の行き先にも関係する今の私たちの物事の考え方や生き方という点で言いますと、とにかくまず謙虚で、人の言葉をよく聞き、特に聖書を通して、天地の創り主なる真(まこと)の神の御言葉にじっくり聞き、考え、実践することの大切さを教えられます。

 第三に、愚かな人は物事をよく掘り下げず、表面的なことで満足しています。せっかちで、人の意見をあまり参考にしないとしても、せめて自分の選んだ土地ぐらいは深く掘り下げ、土台を確かめることは出来たはずです。しかし、彼はそうしませんでした。

 神の前に愚かな人は、一般的に言って、表面的で一時(いっとき)の楽しさや平安で満足し、自分の生き方や自分自身を「これで本当に良いのか」と深く省みることをせず、自分を吟味しません。

 他方、神の前に賢い人も、神の下さる喜びや平安に感謝し、それを楽しみます。でも、そこで終らず、常に自分自身を深く掘り下げます。自分の生き方を振り返り、胸に手を当て、「本当に私はこれで良いのだろうか」と神の前で深く自分を掘り下げます。人のこと以上に、自分を深く吟味します。

 ここで念のためにいいますが、愚かな人は特に不真面目でチャランポランな人だったというのではありません。安らぐことのできる家を建てたのですから、非常識な人でもありません。人が家を建てるのを邪魔する訳ではありませんし、人の家の材料を横取りもしません。普通の人です。いかし、ただ一点、目に見えない肝心の土台に対する考えがいい加減でした。ですから、雨、洪水、風に喩えられる厳しい試練に襲われると、崩れ去りました。

 一方、賢い人の家は、人も羨む特別なものとは言われていません。並の家だったのでしょう。この人自身もよく頭が切れ、特別に優秀だったというのでもありません。普通の人でした。しかし、ただ一点、人の目には触れませんが、土台がチャンとしていなければならないという見識がありました。他の点では普通ですが、その一点のお蔭で、厳しい試練に襲われても大丈夫でした。25節「倒れ」ませんでした。

 繰り返します。神の前で賢い人か愚かな人かは、普段は分りません。自分でも分りません。けれども、大きな苦難や試練に遭うと、それは露になります。

 最初に申しましたように、これは更に重要な永遠の行き先にも繋がります。

 愚かな人は試練に遭うと、激しく動揺し、自分を失い、「一体、神はどうなっているのか」と腹を立て、神を疑い、神から離れやすい。まして、人生最後の試練である死に直面すると、どんなに惨めなことになるでしょう。

 それでも、何とか死の恐怖に耐えたとします。が、死後、全ての人に待っている文字通り最後で最大の試練である神の審判、神のテストに耐えられるでしょうか。無理です。

 一方、賢い人も揺れはしますが、結局、この世でもあの世でも耐えます。イエスはそう教えておられます。Ⅰコリント3:11が「その土台とはイエス・キリストです」と言う通り、神の御子イエスご自身が、信仰者の岩また土台となって必ず支えて下さるからです。

 そこで最後に、結局、何が大切なのかを見て終ります。24節と26節から分りますように、それは「イエスの言葉を聞いて行う」ことです。

 どういう意味でしょうか。7:24~27は、実は5章から始まるイエスの山上の説教の締め括りの箇所です。ですから、ここで言われるイエスの言葉も、今までに出ていたものと考えて良いでしょう。

 そこで少し振り返ります。例えば、5:3でイエスはこうおっしゃいました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国(みくに)はその人たちのものだから」と。天と地と私たち人間を造られた真(まこと)の神の前で自分の自己中心の罪や不信仰を自覚する故に、心の貧しい、つまり、真に謙虚な人は幸いだということです。いつ死んでも、イエス・キリストにより天の御国に確実に入れることを知っている人は、苦しい試練の時にも当然強いですね。それだけではありません。神の前に真に謙虚な人は、天国に入れられるだけでなく、実はこの世でも試練に強いのです。宗教改革者のカルヴァンは、真に謙虚な人の強さを、「倒れている人は、それ以上倒れることがない」というような表現で教えています。イエスの御言葉を聞いて行う真に謙(へりくだ)った人は、様々な試練に強いのです。

 続く5:4でイエスは「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」と言われました。自分の罪と弱さをよく知り、情けなくて悲しむ人を、神はやがていつも必ず慰めて下さいますが、こういう人にとっては、自分の罪深さと不信仰故の悲しみに比べますと、試練の悲しみなど、まだ軽い。ですから、試練に耐えるのです。

 5:5でイエスは「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから」と言われました。自分の罪深さや弱さをよく知る故に、神の前に謙虚で柔和な人を、神は「地を受け継」がせる、つりり、この世でも祝福されます。そういう人は当然、人に対して柔和です。

 柔和でない人、つまり、自分のことは棚に上げ、人にはよく文句を言い、批判する人もこの世にはいますが、そういう人は、困った時、どうしても人から助けてもらいにくいですね。ですから、ダメージも大きくなる。

 一方、いつも柔和で、人に優しく、温和な人が試練で苦しんでいると、どうでしょうか。回りの人もつい手を差し伸べ、助けるのではないでしょうか。ですから、その人は試練にも耐えやすくなる。

 5:6でイエスは「義に飢え渇く者は幸いです。その人達は満ち足りるから」と言われました。「義に飢え渇く」とは、分りやすく言いますと、私たちを造られた神に自分がもっともっと喜ばれる者になりたいと切に心から願うことです。神は喜んでこれに応えられます。しかしそれに加え、こういう人は神の正しさや清さに自分が近づきたいことに常に一生懸命で、生き方に芯が通っています。ですから、色々思い掛けないことが起っても、それに振り回されにくい。だから、耐えるのです。

 死を前にしても、死そのものより、死の彼方で信仰者を笑顔で待っておられる父なる神と御子イエス・キリストを見つめていますから、自ずと死にも耐える。そして死後に待っている神の最後の審判、最後のテストにも耐え、マタイ25:21にあるように、「よくやった。良い忠実な僕(しもべ)だ」という神のお褒めの言葉を必ず聞くことになります。

 主イエスは、私たちが神の前に真に賢い者となることを願っておられます。私たちを本当に愛しておられるからです。ですから、是非イエス・キリストの言葉をしっかり心の土台に刻み、それに従い、それに生きることにより、真の賢さ、知恵を与えられ、またイエスの素晴らしい福音をもっともっと多くの方と分ち合える者にされたいと思います。

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