2025年08月24日「死を凌駕する神の愛と慈しみ」

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死を凌駕する神の愛と慈しみ

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
イザヤ書 49章15節~16節

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聖句のアイコン聖書の言葉

49:15 女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の実を憐れまないであろうか。たとえ女たちが忘れても、この私は、あなたを忘れない。
49:16 見よ、私は手のひらにあなたを刻んだ。イザヤ書 49章15節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、クリスチャンではない皆様にも少し分りやすく、また心に留めて頂くことを願って、お話させて頂きます。

 「死をも凌駕する神の愛と慈しみ」という説教題ですが、要は、私たちの人生最後で最大の危機である死の時、神の御子、救い主イエス・キリストを素直に信じ、依り頼めることが如何に幸いかというお話を致します。

 私は1999から2013年まで、従って51歳~65歳まで、大阪の淀川キリスト教病院の牧師として働きました。僅か14年間ですが、多くの患者さんに関り、終末期、すなわち、死を前にした大切な時期にある方々のお世話もさせて頂きました。終末期の方に関る時は、毎回緊張しました。そんな中、私は患者さんやご家族と信頼関係の生れることがとても大切であり、それと聖書のお話、また患者さんのそばで患者さんとご家族のために祈ることに伴う神の恵みを強く感じたものです。

 先程のイザヤ書の神の御言葉(みことば)は、今から二千数百年前のユダヤ人に語られたものですが、死を前にした患者さんが静かに聞かれ、受け入れ、穏やかに最期を迎えられたことの多かったものの一つです。もう一度お読みします。49:15、16「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の実を憐れまないであろうか。たとえ女たちが忘れても、この私は、あなたを忘れない。見よ、私は手のひらにあなたを刻んだ。」

 少し説明を加えます。14節に「しかし、シオンは言った。『主は私を見捨てた。主は私を忘れた』と」とあります。「主」、つまり、天地を造られた真(まこと)の神は何千年も前に、ユダヤ人の先祖に親しくご自分を現し、ご自分の意思を伝える預言者たちを送り、正しく、また愛に生き、彼らが全世界の祝福となることを願われました。

 ところが、彼らは周りの国々に倣って偶像礼拝に耽り(ふけり)、不正や暴虐を行い、貧しい人や外国人を虐げ、また罪を非難する預言者たちを殺すなど、罪を繰り返したため、大変厳しい罰を神から受けました。

 そういう中、彼らも自らの罪を認めて悔い改め、元の幸いな状態への回復を神に求めました。しかし、その時がなかなか来ません。そこで彼らは14節<主は私たちを見捨て、主は私たちを忘れた>と言い、自分たちはもう駄目なのだと落胆し、腐っていました。

 けれども、神は彼らを決して見捨てられたのではありません。そこで、預言者イザヤにより彼らにおっしゃったのが15節、16節でした。15節「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の実を憐れまないであろうか。」そして実際、彼らユダヤ人は回復の時を、その後、与えられたのでした。

 この神の御言葉は、昔のユダヤ人だけでなく、今日、神の御子イエス・キリストを自分の救い主として心から信じ、神に従い、神に一切を委ねて生きようとする全ての信仰者・クリスチャンにも語られています。

 母親はやはりすごいと思います。母親が自分の乳飲み子を忘れるなんて、ますあり得ませんね。お腹を痛めて産んだ自分の子供が苦しんでいるのを見て、子供を憐れまない母親が、どこにいるでしょう。

 今年の8月は、80年前に日本が戦争に負けた月であり、戦争が日本人自身をひどく痛めたことも、連日、色々な所で語られていました。爆弾や焼夷弾が降り注ぐ恐ろしい空襲の中、若い母親が乳飲み子を背負い、子供の手を握り、必死になって逃げ回った話なども出ていました。まさに15節「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の実を憐れまないであろうか」です。

 しかし、何らかのことで女性が自分の子供を忘れ、見捨てることも、大変悲しいことですが、この罪の世では、なくはありません。けれども、神は違います。15節「たとえ女たちが忘れても、この私は、あなたを忘れない」と言われます。

 さらに、神はご自分の子供にした信仰者にこう言われます。16節「見よ、私は手のひらにあなたを刻んだ。」

 前にもお話したことがありますが、かつて私が病院で働いていた頃、患者さんや他の人から言われた大事なことを忘れないために、看護師さんはとっさに、よく自分の手にボールペンでそれを書いておられました。私も自分の手にメモしたことがあります。

 しかし、神はメモどころではありません。神経もいっぱいあって敏感で痛いその手のひらに、先の尖ったナイフでギリギリと信仰者のことを彫り刻んだと言われます。どんなに痛くてもです。無論、これは比喩ですが、私たちを決して忘れないためにそうすると神は言われます。何という神の愛でしょう。

 それだけではありません。ここの手のひらは、元のヘブル語聖書では複数になっています。つまり、両方の手のひらを指します。試しに、まず自分の左の手のひらを出し、そこを見つめ、次に右の手のひらも出してそこを見つめ、その後、左と右の手のひらをそーっと合わせ、その中を見つめると、どうでしょうか。片手だけの時と両手を合わせた時とでは、両手の時の方が私たちの眼差しは優しく、慈しむような感じになっていると思います。

 イザヤ49:15、16で神が私たちにおっしゃっているのは、まさにこういうことです。御子イエスを心から信じ、一切を委ねる信仰者を、神は決して忘れないために、永遠にご自分の両方の手のひらに彫り刻むように、永遠に慈しみ続けて下さるということです。

 肺癌のため、42歳で亡くなった女性は、聖書のこの話を私がした後、ベッド上でご自分の痩せ細った白い手のひらを暫くじーっと見ておられました。40代半ばのまだ若い夫と子供二人を残す悲しさ、また死に対する何とも言えない不安を覚え、しかし、決して私たちを忘れず、永遠にご自分の手のひらの中で見るように覚えて下さる神の愛と慈しみを心に留め、神に委ねようとされたかも知れないと、私は思っています。

 キリスト教は全く初めてという患者さんの中には、院内の天井スピーカーや病室のテレビで耳にされた讃美歌や聖書の言葉を聞いて私の部署の者を呼ばれ、私もよく訪問しました。ご家族共々親しくなり、私が患者さんとご家族を覚えて祈り、先程のものを初め聖書の話を聞かれ、その結果、洗礼を受け、あるいは、洗礼には至らなくても安心して穏やかに亡くなる患者さんも少なくありませんでした。

 イザヤ書には、他にも患者さんにお話した御言葉がありますので、少しだけ見ておきます。例えば、43:1~2は大きな不安の中にあった信仰者たちへの神の言葉ですが、死を前にした方や手術を前にした患者さんにもお話しました。「だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形作った方が。『恐れるな。私があなたを贖った(あがなった)からだ。私はあなたの名を呼んだ。あなたは、私のもの。あなたが水の中を過ぎるとも、私はあなたと共にいる。川を渡る時も、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。』」

 ここの「火の中」や「水の中」を、患者さんは、ご自分が死ぬ時のこととか、間もなく受けることになる大きな手術中のこととして受け止められたと思います。

 4節の神の言葉も読みます。「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」

 もう一か所、46:3、4の神の言葉も読みます。「ヤコブの家よ、私に聞け。イスラエルの家の全ての残りの者よ。胎内にいた時から担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなた方が年をとっても、私は同じようにする。あなたが白髪になっても、私は背負う。私はそうしてきたのだ。私は運ぶ。背負って救い出す。」

 繰り返しますが、死は、私たちの人生最後の、それも全く未体験の最大の試練です。しかし、それを遥かに超える永遠者、絶対者なる神、しかもご自分の御子イエスを私たちの永遠の救い主としてプレゼントして下さったその神の愛と慈しみを知り、イエス・キリストを信じてその神に自分を全て委ねられるかそうでないかは、大変な違いです。

 人は元気な時には何でも言えます。自分でも何とかなりそうに思えます。しかし、体が弱り切った状態で、また猛烈な倦怠感に全身が襲われ、それも、ただ一人で初めて迎えなくてはならないのが死です。しかも死後、私たちが行って来た隠れた罪も全てご存じの神の裁きが待ちます。

 しかし、御子イエスを幼子のように信じ、受け入れ、依り頼む者に、神は約束されます!「この私は、あなたを忘れない。見よ、私は手のひらにあなたを刻んだ!」

 自分の死をキチンと直視し、しかし、愛と慈しみに満ちた全能の神に一切を委ね、神のきよい御心に心から従い、最後まで、ご一緒に手を携え合い、支え合って、歩んで行きたいと思います。

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