2025年08月17日「躓(つまず)かせない配慮」
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躓(つまず)かせない配慮
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- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 17章22節~27節
聖書の言葉
17:22 彼らがガリラヤに集っていた時、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。
17:23 人の子は殺されるが、三日目に甦ります。」すると彼らは大変悲しんだ。
17:24 彼らがカペナウムに着いた時、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなた方の先生は神殿税を納めないのですか。」
17:25 彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちは誰から税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、他の人たちからですか。」
17:26 ペテロが26節「他の人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。
17:27 しかし、あの人たちを躓かせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、私とあなたの分として納めなさい。」
マタイによる福音書 17章22節~27節
メッセージ
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17:1~8が伝えましたように、高い山の上でイエスは神の御子としてのご自分の輝く姿を3人の弟子たちに示されました。彼らにとって、これは大変重要な経験だったでしょう。
また山を下りた後、14~18節が伝えましたように、悪霊によるてんかんに幼い時から苦しめられて来た子供を、イエスは直ちに癒されました。弟子たちは、イエスが神からの真(まこと)の救い主だという確信を一層強められたと思います。
さて、これに続く今朝の御言葉から、私たちはどんなことを教えられるでしょうか。人を躓(つまず)かせない配慮をイエスがされたことです。
ご自分を疑い信じていない人たちのことに関して、イエスは後の27節で「あの人たちを躓かせないために」と言われます。ここで「躓かせる」と訳されている元のギリシア語は「人に罪を犯させる。信仰を断念させる」という意味を持ちます。
この配慮は、弟子たちにも向けられていると思われます。
そこで、改めて22、23節を読みます。「彼らがガリラヤに集っていた時、イエスは言われた。『人の子(イエスご自身のこと)は、人々の手に渡されようとしています。人の子は殺されるが、三日目に甦ります。』すると彼らは大変悲しんだ。」
このように、イエスがご自分の死と三日目の復活を弟子たちに話されるのは、16:21に続いて二回目です。そして20:17~19でも、この話をイエスはされます。その三回目の時には、具体的にご自分が十字架で殺されることも話されます。
では、何のためにこの話をイエスは繰り返されるのでしょうか。無論、弟子たちをやがて起るイエスの死という厳しい出来事に備えさせるためです。言い換えますと、彼らを躓かせないためでした。ここには、折角、イエスへの確信が強まっていましたのに、なおも弱い弟子たちへのイエスの配慮があります。実際、私たちには第一に、一度聞いても忘れる弱さがあります。第二に、私たちは一度や二度聞いても、十分に理解できない弱さもあります。第三に私たちには、良いことよりも悪いことの方ばかりが強く心に残り、気になり、まだ起ってもいないのに落ち込み落胆するという心配性の傾向があります。
実際、17:22の二回目の時も、イエスはご自分の死だけでなく、死からの甦りも語っておられますのに、弟子たちは23節「大変悲しんだ。」ある意味、彼らはもうここで少し躓いていたと言えるでしょう。
けれども、彼らの弱さも全てお分りのイエスは、敢えてこのようにご自分の死と、特に甦り・復活を予め語られます!最良の教育方法である繰り返しにより、うっすらでも彼らの心に刻まれるイエスの言葉は、やがて彼らが実際にイエスの逮捕と殺害という恐ろしい現実に直面し、更に三日目の復活という本来は絶対に起り得ない出来事に困惑している時に、イエスへの確信と新たな力と希望を与えることになるからです。弟子たちを躓かせないための何というイエスの配慮でしょうか。
イエスのこういう配慮は、ここだけではありません。十字架の前夜、イエスは弟子たちにやはり苦難と共に勝利と希望を語られます。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)イエスはまた同じように弟子たちに「私がしていることは、今は分らなくても、後で分るようになります」(ヨハネ13:7)と、将来、弟子たちが体験することになるご自分の恵みを約束されます。
実は聖書全体が至る所で、罪と不信仰に満ちたこの世で私たちが直面する厳しい現実を教える一方で、信仰の薄い私たちを励まし、あるいは、後で私たちも分るようにされるという、いわば躓かせないための配慮に満ちた教えや約束を必ず与えています。神はそういう配慮を聖書でして下さっているのです。ですから、私たちも、まだ信仰生活が浅く、信仰の弱い教会員とか求道中の兄弟姉妹たちを躓かせないための温かい配慮を、どんな時にも怠らないでいたいですね。
さて、マタイ17:24以降からも人を躓かせない配慮をイエスがされたことを教えられます。24、25節「彼らがカペナウムに着いた時、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。『あなた方の先生は神殿税を納めないのですか。』彼は『納めます』と言った。」
出エジプト記30:12~16の律法が定めますように、かつて20歳以上のイスラエルの男子は、年に一度、大体二日分の労働賃金の額を税として神殿に納めるようになっていました。しかしながら、イエスは大切な福音を多くの地域で宣べ伝えるためによく旅をしておられましたので、税を納めることが遅れたかも知れません。またマタイ15章が伝えていましたように、イエスは当時の宗教的指導者であったパリサイ人たちや律法学者たちと宗教既定に関して厳しい議論もしておられました。ですから、イエスは神殿税を納めないのではないかと、ペテロに近づいた人たちは疑っていたかも知れません。
これに対し、ペテロは25節「納めます」と答えました。元のギリシア語では、「勿論、納めます!」という位強い返事です。ですから、イエスは当然、今までも律法に従い、忠実に納めて来られました。
しかし、ペテロが家に入りますと、外であった全てのことをご存じのイエスは、ご自分からペテロに言われました。25節「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちは誰から税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、他の人たちからですか。」ペテロが26節「他の人たちからです」と答えますと、イエスは言われました。「ですから、子たちにはその義務がないのです。」そして続けてイエスは言われます。27節「しかし、あの人たちを躓かせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、私とあなたの分として納めなさい。」
この後、ペテロがどうしたのかをマタイは伝えていませんが、当然言われた通りにしたでしょう。
イエスは、エルサレム神殿どころか天と地、万物を支配される神の独り子です。神殿税を納める義務など全くありません。しかし、人々を躓かせないために「スタテル銀貨一枚」(二人分の神殿税額)をペテロとご自分の分として彼に納めさせられました。
ここに私たちは、ご自分を信じていない人々に対してもなさいますイエスの配慮、特に人を躓かせないための配慮を教えられます。神の独り子としてのご自分の権利に固執することなく、人としての義務を果たし、人々から躓きを取り除き、そうしていつか彼らが心を開き、イエスへの信仰により罪の赦しと永遠の命の祝福に与れるための配慮でした。
こうして、今朝私たちは、イエスご自身のお姿を通して、人を躓かせない配慮を教えられました。
無論、この世は根本的に造り主なる神に逆らい、あるいは神を無視し、自分を第一にして生きようとする罪の世です。従って、神を第一にして生きようとするクリスチャンの言葉や行動の中には、どうしても一般の人には躓きとなるものがあります。それは避けられません。例えば、偶像礼拝をしないとか、日曜日を聖別して神礼拝を中心に送るといったことは、代表的なものです。これはやむを得ません。ローマ12:2も「この世と調子を合わせてはいけません」と命じています。そのために、霊的な戦いは避けられません。
しかし、律法に反しないことでは、イエスご自身に倣い、私たちは、教会の中でも外でも、人を躓かせない配慮に丁寧に努めたいと思うのです。イエスは敢えて誇張してこう言われます。マタイ18:6「私を信じるこの小さい者たちの一人を躓かせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに静められる方が良い」と。Ⅰコリント8:9は言います。「あなた方のこの権利が、弱い人たちの躓きとならないように気をつけなさい。」Ⅰペテロ2:16も言います。「自由な者として、しかもその自由を悪の言いわけにせず、神の僕(しもべ)として従いなさい。」
イエスご自身が示された<人を躓かせない配慮>ということを、私たちも改めて今日よく考え、殆どよく考えないでぺらぺら喋ってきた今までの自分の言葉、自分の行動、自分の態度などを主の御前(みまえ)によく振り返り、主イエスに倣い、今日からの新しい一週間も、夫々が置かれた所で、誠実に喜んで、神と人に仕えたいと思います。