2025年08月14日「見えないものに目を留める」

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。
4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。コリントの信徒への手紙二 4章16節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 使徒パウロは、紀元1世紀の中頃にコリント教会へ送った第二の手紙の4:18で「見えないものに目を留めます」と書きました。この時、彼は救い主イエス・キリストを宣べ伝えたために迫害され、またコリント教会内に見られた問題に心を痛め、その上、自らも病を抱え、本当は辛い状態にありました。それにも関らず、16、17節「私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです」と言えました。

 どうしてこんなことが言えたのでしょうか。それは、彼が見えないものに目を留めて生きていたからです。彼は言います。18節「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」

 では、永遠に存続するその見えないものとは何でしょうか。天と地を創造され、今も統べ(すべ)治められる神、特に私たちを罪とその結果である永遠の悲惨から贖い(あがない)、罪の赦しと永遠の命を与え、ご自分の子とするために、御子イエスの十字架の死と復活により救いの道を開いて下さった神の愛と真実です。

 目に見える現実だけを見るなら、パウロも失望させられるだけだったかも知れません。彼自身も回りの状況も良くありませんでした。仮に良いと思えても、見えるものは必ず変化し、失われるからです。

 しかし、彼はイエス・キリストへの信仰により、全知全能の生ける真(まこと)の神を、また御子イエスを通しての決して失われることも裏切られることもない神による永遠の救いを知っていました。ですから、回りの状況や人の優しさなど目に見えるものも当然大切にし、感謝しましたが、それらに頼り切って自分を失うようなことはありませんでした。

 20世紀は目に見えるものが大量に生産され、目に見えるものを沢山所有し、沢山消費することが幸せであるかのような考えが横行し、私たちも知らない間にそういう目に見える物質主義に影響されていたと思います。しかし、その結果はどうでしょう。私たちの社会は、どんなに多くの問題を未解決のまま、21世紀に突入したことでしょうか。そして21世紀も25年目の今、どんな確かな希望があるでしょうか。

 このことは、私たち個々人の生き方を考える上でも大変重要だと思います。見えるものを絶えず追い求め、あるいは見えるものに頼り切っているなら、人はいつか自分の土台を失わざるを得ません。見えるものは必ず変化し、失われ、私たちから離れて行くからです。

 しかし、私たちを造られ、またよく知らなかったとはいえ、神に背を向け、あるいは神以外の一時的なものを頼りに生きてきた私たちを憐れみ、御子イエスによってこんな私たちを永遠に救うことのおできになる真の神と、その愛と真実と約束に目を留めているならば、どうでしょうか。私たちは自分の力によってではなく、神がご自分の力により、あらゆる困難や試練の中でもパウロにそうであられましたように私たち信仰者を支え、やがては誰もが迎える死の時も、私たちは救い主イエス・キリストに伴われて永遠の御国に必ず迎えて頂けます。

 小説『宝島』を書いたスティーヴンスンは、ある牛飼いの老人のことを伝えているそうです。ある人がその老人に同情し、「牛小屋の汚物の中で、来る日も来る日もよく働けますね」と言うと、老人は「ちゃんとした見通しを持っていれば、仕事がイヤになることはありませんや」と見事に答えたといいます。この老人は、見えるものにではなく、見えないものに目を注いで働いていたのです。

 ヘブル人への手紙11:13が言う通り、この世にあって、私たちは旅人、寄留者に他なりません。ですから、ただイエス・キリストへの信仰により神が迎え入れて下さるゴール、永遠の天の国を、またご自分を決して偽ることのおできにならない神の愛と真実とお約束という目に見えないものに絶えず目を留め、そこに究極の価値観を置いて生きて行きたいと思います。神は主イエスにより、パウロと同じように「私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです」と言える恵みを私たちに下さっているのです。

 私たちは皆、これまで実に多くの人たちに支えられて生きて来ました。決して独りで生きて来たのではありません。それを思って、心からへりくだり、感謝したいと思います。

 しかし、最終的には、御子イエスを十字架につけられたほどに私たちを愛して下さっている天の父なる神をハッキリ仰ぎ、一切を委ね、与えられた命の間、互いに手を携え合い、神に喜ばれるように地上の旅路を進めたいと思います。

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