2025年08月10日「不信仰と信仰」

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聖句のアイコン聖書の言葉

17:14 彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、
17:15 こう言った。「主よ、私の息子を憐れんで下さい。てんかんで、大変苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。
17:16 そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」
17:17 イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなた方と一緒にいなければならないのか。いつまであなた方に我慢しなければならないのか。その子を私のところに連れて来なさい。」
17:18 そして、イエスがその子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒された。
17:19 それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」
17:20 イエスは言われた。「あなた方の信仰が薄いからです。まことに、あなた方に言います。もしからし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなた方にできないことは何もありません。」マタイによる福音書 17章14節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 17:1~8が伝えましたように、主イエスはヘルモン山と思われる高い山の上で神の御子としての本質を、輝く御姿(みすがた)で3人の弟子たちにお見せになり、やがて一行は山を下りました。

 すると、14節、一人の人がイエスに近寄り、ひざまずいて言いました。15、16節「主よ、私の息子を憐れんで下さい。てんかんで、大変苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。そこで、息子をあなたのお弟子たちの所に連れて来たのですが、治すことができませんでした。」するとイエスは17節「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなた方と一緒にいなければならないのか。いつまであなた方に我慢しなければならないのか。その子を私の所に連れて来なさい」とお答えになり、18節「その子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒され」ました。

 同じ場面を伝えるマルコ福音書9:14以降とルカ福音書9:37以降も総合しますと、この子は幼い時から大変辛い思いをして来ました。悪霊がついた特別なてんかんであるため、体の硬直、叫び声、引きつけ、泡を吹かせるだけでなく、彼を火の中や水の中に倒れさせ、殺しかねない非常に危険なものでした。親はどんなに辛かったことでしょう。すがる思いでイエスの前にひざまずき、癒しを願いました。

 それにしても、イエスが17節「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなた方と一緒にいなければならないのか。いつまであなた方に我慢しなければならないのか」ととても厳しく不信仰を咎め(とがめ)、嘆かれたことに、私たちも少々驚き、戸惑うと思います。何故イエスは、こんなに厳しくおっしゃったのでしょう。

 一つには、悪霊まで勝手気ままに働いて人をとことん苦しめることができるようにしてしまった人間社会、特にこの時のユダヤ人社会全体の不信仰への、主イエスの嘆きと憤りがあると思います。

 ユダヤ人は神の憐れみにより神の御言葉・旧約聖書を与えられ、自分たちを罪と永遠の滅びから救うことのできる神からの真(まこと)の救い主を約束されていました。しかし、それにもかかわらず、彼らは自分たちの不信仰は棚の上に上げ、悔い砕けた魂で悔い改めることをせず、ただローマ帝国を悪者にし、自分たちをローマの支配から救ってくれる英雄のようなこの世的・世俗的救い主を求めていたのでした。

 神を知らないわけでも神を信じていないわけでもありません。彼らの殆どはエルサレム神殿で規定通りに礼拝はしていました。けれども、自分の思いと言葉と行いを神の律法に照らして深く顧みることとか、先祖アブラハムに神が与えられた全世界の祝福となるという神の民としての尊い使命(創世記12:2参照)も忘れ、むしろ、ユダヤ民族以外の異邦人たちを蔑み、自らはこの世的安楽を第一とする不信仰に慣れ切っていました。

 そして、こういう不信仰が悪霊のひどい働きを許し、悲惨を招いていることには鈍感でした。ですから、イエスは17節「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなた方と一緒にいなければならないのか。いつまであなた方に我慢しなければならないのか」と言われたのでした。

 しかし、イエスの嘆きにはもう一つ理由があります。それはご自分の弟子たちが不信仰だったことです。

 10:1が伝えていましたように、イエスはかつて12人の弟子たちに汚れた霊を制する権威を授け、彼らは実際に悪霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すことができました。ところが今回、イエスが3人の弟子を連れて山の上におられる間に、悪霊につかれ、てんかんに苦しむ子供が連れて来られても、9人の弟子たちは何もできませんでした。

 どうして彼らは何もできなかったのでしょうか。不信仰のためでした。

 

 不信仰といっても、彼らに信仰が全くなかったのではありません。これは信仰が薄いという意味です。この点を、実はイエスは弟子たちに、例えば8:26「どうして怖がるのか。信仰の薄い者たち」とか、14:31「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」とか、16:8「信仰の薄い人たち」などと何度もおっしゃっていたのです。これは信仰が小さいという意味でもあります。信仰はあるのですが、薄くて小さいということです。

 イエスは、弟子たちにこれまで親しく細やかに神の御心を教え、ガリラヤ湖では嵐を一瞬の内に静め、重い病気や障害のある大勢の人たちを癒し、5千人養い、4千人養いの奇跡などを通しても彼らの信仰を育てて来られました。

 しかし、今、彼らは無力でした。イエスが共におられなかったために怖気(おじけ)づいたのでしょうか。理由は分りません。色々言い訳はできたでしょう。けれども、ハッキリしていることは、信仰が薄く小さいため、信仰に本来与えられています父なる神と御子イエス、そして聖霊なる神の素晴らしい恵みの力を発揮できなかったことです。

 このことは、今の私たちにも無関係ではありません。イエスは弟子たちに何度も「信仰の薄い者たちよ」と言われました。私たちも信仰が薄いと、語るべき時に語れず、隣り人を助けて上げるべき時に何もできず、折角の神の御力を表わすことができず、自分でも惨めなことで終ります。

 しかし、その自己認識がとても大切です。そこから、厚くて大きく確かな信仰を真剣に求めるようになるからです。

 

 以上、不信仰について色々教えられました。では、こうまでイエスが尊ばれる信仰には、どれほどの力があるのでしょうか。それを残りの時間で見たいと思います。

 弟子たちは自らの無力さを覚えて恥じ入り、そっとイエスに19節「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか」と尋ねました。彼らの不信仰を嘆きはしても、彼らを愛しておられるイエスは言われました。20節「…まことに、あなた方に言います。もし辛子種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなた方にできないことは何もありません。」

 21節が抜けていますので、少し説明しておきます。後の時代の写本の中には「但し、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」を加えるものもあります。しかし、マタイが書きました元の福音書にはなかったと思われるため、省いています。

 実はこの出来事を同じように伝えるマルコ福音書9:29は、イエスが「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません」と言われたことを伝えています。しかし、悪霊を追い出せずに恥じ入った9人の弟子の一人、マタイは、神が私たちに下さる信仰が如何に素晴らしいかということの方を伝えています。こちらの方の点がとても強く心に残ったので、それを是非伝えたかったのでしょう。

 辛子種はとても小さな種です。しかし、イエスが13:31、32で言われましたように、生長すると大きな木になり、空の鳥がそこに巣を作るようになり、驚くべき力を秘めています。

 イエスはこの点を更に強調されます。20節「…もし辛子種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなた方にできないことは何もありません。」

 これは物事を誇張した例えです。「山を移す」とはユダヤ人がよく使った慣用句であり、困難な問題を解決するという意味です。イエスは弟子たちの不信仰を嘆かれましたが、神が信仰に与えておられる大きな力を教え、彼らを励まされたのでした。

 私たちもこの点を深く心に刻みたいと思います。事実、イエス・キリストへの信仰は、例えば、迫害下にあったパウロをピリピ1:21「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」とまで言える者に変えました。

 同じように、多くのクリスチャンがローマ帝国から迫害され、殺されても、なお信仰に生き、信仰を証ししたため、ついに紀元313年、ローマ帝国はキリスト教を許可せざるを得なくなりました(ミラノ寛容令)。

 一介の修道士に過ぎなかったM.ルターは、信仰により、1517年10月31日、「95箇条の提題」と呼ばれる公開質問状をヴィッテンベルク城の教会の扉に張り付けたことで、全ヨーロッパに宗教改革がまたたくまに拡がって行きました。

 いいえ、先程も取り上げましたが、誰よりも主イエスの弟子であったマタイ自身、信仰によって、この福音書を書くことで、全世界のどんなに夥しい数の人たちが罪と滅びから救われることに貢献してことでしょうか。

 マタイ5:3以降でイエスが言われますように、信仰は本来、私たちをますます心の貧しい、つまり謙虚で、柔和で、義に飢え渇き、憐み深く、心が清く、そして平和を作る者に変え、福音の前進に役立たせ、神は、驚くべき力を発揮されるご自分の道具とされるのです。ですから、神が下さっている信仰というものに改めて心から感謝し、マタイ7:7で「求めなさい。そうすれば与えられます」と約束された主イエスに、更に厚く大きな信仰を願い求め、そのために、繰返し、自らを主イエスに心から明け渡したいと思います。

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