人間の罪と不信仰の中で
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 17章9節~13節
17: 9 彼らが山を下る時、イエスは彼らに命じられた。「あなた方が見たことを、誰にも話してはいけません。人の子が死人の中から甦るまでは。」
17:10 すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」
17:11 イエスは答えられた。「エリヤが来て、全てを立て直します。
17:12 しかし、私はあなた方に言います。エリヤは既に来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」
17:13 その時、弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。ヨハネによる福音書 17章9節~13節
前回、私たちはマタイ福音書17:1~8のいわゆる「イエスの山上の変貌」の箇所から、イエスが第一に確かに神の御子であられ、第二に罪と滅びから私たちをただご自分への信仰を通して救って下さる救い主であられること、第三にいつまでも理解力に乏しく、信仰の薄い私たちを、愛と憐みと寛容をもって励まして下さる方であることを学びました。
今朝は9~13節に進みます。今朝の説教題を「人間の罪と不信仰の中で」としました。では、どんな点に人間の罪と不信仰が見られるでしょうか。
一つは、人間が世の中の様々な問題の根本原因を、神への人間の不信仰と罪にあるとはあまり考えず、むしろ、自分以外の政治や社会やその体制にあると考えることです。
前回見ましたように、山の上でイエスの姿が変り、イエスが神であられ、神の御子であられることを知った弟子のペテロ、ヤコブ、ヨハネは、どんなに嬉しかったでしょうか。山を下りたら、すぐ皆にイエスのことを伝えたかったでしょうね。
ところが、9節、彼らが山を下る時、イエスは彼らにこう命じられたのでした。「あなた方が見たことを、誰にも話してはいけません。人の子が死人の中から甦るまでは。」イエスは、十字架の死の後、ご自分が復活するまでは、誰にも一切話すなと命じられたのでした。どうしてでしょうか。
旧約聖書により神からの救い主を正しく知ることができたのに、当時のユダヤ人たちの多くは、そういう救い主ではなく、軍事的解放者のような間違った世俗的救い主を期待していたからでした。
ユダヤは当時、ローマ帝国に支配され、ユダヤ人たちはローマ軍を一挙に倒し滅ぼしてくれる英雄のような救い主を求めました。無論、侵略や不正を初め、社会の様々な問題は解決しなければなりません。しかし、最大の問題点は、自分自身が神に対して不信仰で罪深く、そのままなら死後、神に裁かれ、永遠の悲惨に至ることです。従って、誰であっても人は皆、罪と不信仰をまず悔い改め、神に罪を赦され、いつ死んでも天の御国(みくに)に確かに入れられる者となることが、最重要で緊急を要することなのです。これは今の私たちも同じです。
そのために、神の御子イエスはわざわざ人間となられ、私たちの身代りとなってご自分の命を十字架で捧げ、私たちの罪を全部償い、また復活され、ご自分を信じる者を神と和解させ、永遠の命を与えようとしておられました。しかし、山の上で主イエスの素晴らしいお姿を見た弟子たちが、嬉しくて、イエスのことを言いふらせば、人々はイエスを自分たちの王とし、軍事的指導者にまつりあげ、武器を持ってローマ軍に立ち向うでしょう。
しかし、そうなると、イエスがご自分の命を捧げてしようとしておられる人類の罪の償いはできなくなります。また、武器を握って立ち上がる大勢のユダヤ人たちは確実に悲劇的な結末に至るでしょう。ある註解書によりますと、イエスの受難以前の百年間に何と20万人以上のユダヤ人が革命や反乱を起して命を失ったそうです。
話を戻します。人間の罪と不信仰の一つは、人間が世の中の様々な問題の根本原因を、自分自身をも含めて、神への人間の不信仰と罪にあるとはあまり考えず、体制を、あるいは自分たちを引っ張ってくれる指導者を変えさえすれば解決できる、などと安易に考えることです。私たちもこの点を改めてよく考え、十分、気をつけたいと思います。
さて、人間の罪と不信仰の二つ目は何でしょうか。人間が結局は自分の好き勝手にやり、好き勝手に生きようとする、その自己中心性です。
弟子たちはイエスに尋ねました。10節「そうすると、まずエリヤ来るはずだと律法学者達が言っているのは、どういうことなのですか。」弟子たちは、イエスが神からの救い主であられることはよく分っていました。しかし、そうすると、旧約聖書を研究している律法学者たちが、救い主の出現による世の終りの前に預言者エリヤが来ると言っているのは、どういうことなのかという疑問です。
確かに、旧約聖書の最後の書であるマラキ4:5、6で、神は「見よ。私は主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなた方に遣わす。彼は、父の心を子に向わせ、子の心をその父に向けさせる」と言っておられました。後半部分は、預言者エリヤが人々を悔い改めさせ、神の御心に生きるようにさせるという意味です。ですから、イエスもマタイ7:11で「エリヤが来て、全てを立て直す」と言われました。
しかし、続けてイエスはこう言われます。12節「…私はあなた方に言います。エリヤは既に来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」これを聞き、弟子たちは13節「イエスが自分たちに言われたのは」、つまり、約束されていたエリヤとは、バプテスマのヨハネのことであることに気づいたのでした。
マタイの福音書14章は、バプテスマのヨハネを領主ヘロデが全く身勝手な理由で殺したことを伝えていました。しかしそこだけではなく、11章も伝え、特に11:16~19で、バプテスマのヨハネを適当にあしらうユダヤ人たち自身の不信仰と罪の問題を、主イエスは既に指摘しておられたのでした。
17章に戻ります。本音を言えば、好き勝手に生きたい人間の自己中心な罪と不信仰のために、12節でイエスが言われたように、「人の子」、つまり、イエスご自身も、人々から必ず苦しみを受けることになるのであり、実際、人類の罪と不信仰とが神の独り子イエスを十字架につけたのでした。
以上、人間の罪と不信仰を見ました。
では、この現実の中で、イエスはどうされたでしょうか。「自分自身の罪や不信仰は棚に上げておいて、他人や社会ばかりを悪ものにし、好き勝手にしているこんな人間のために、私が十字架で死ぬなんて、全く馬鹿らしい。イヤだ!」などと言って、イエスはご自分の使命を放棄されたでしょうか。いいえ、決して!
イエスは、父なる神の私たち罪人に対する憐みに満ちた救いのご計画に、どこまでも忠実に従われたのでした!ですから、ピリピ2:5~8は言います。「キリストは、神の御姿(みすがた)であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」
人間の罪と不信仰の中でも、天の父なる神の御心にあくまで従順であられ、また私たち罪人にどこまでも仕えようとされた主イエスの、一体、何という愛と憐れみでしょうか!
このイエスのお姿こそ、どんなに人間の罪と不信仰が渦巻く中にあっても、ただイエスへの信仰だけで罪の赦しと永遠の命の恵みに与ることを許された私たちクリスチャンの倣うべきものではないでしょうか。
バプテスマのヨハネのあと、約束の救い主、神の独り子イエスが来られたことは、実は、神の大きな歴史の時間軸の中では、もう終りの時代に突入していることを意味します。南海トラフ地震などを私たちはよく話題にします。しかしそれどころか、本当はいつ世の終りが来るかも知れないのです。
また私たち一人一人も、神のご計画により、いつ心臓が止まり、地上の命が終るかも知れません。
ですから、私たちの今いる世界や社会が、人間の罪と不信仰の故にどんなにうんざりするようなものであり、馬鹿らしいと思えても、私たちは主イエスにお従いし、主イエスに倣い、神から与えられた自分の使命や働きにどこまでも忠実であり、特に真実な言葉と清い生活に励み、大切な主イエスの福音を、忍耐強く隣人に証ししたいと思います。
最後に、Ⅱテモテ4:2を読みます。「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」