まことの神を神とする幸せ
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 出エジプト記 20章1節~6節
20:1 それから神は次のすべての言葉を告げられた。
20:2 「私は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
20:3 あなたには、私以外に、他の神があってはならない。
20:4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主である私は、ねたみの神。私を憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 私を愛し、私の命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。出エジプト記 20章1節~6節
今朝は、クリスチャンではない皆様に多少ともキリスト教信仰を分って頂くことを願ってお話致します。
先程の聖書箇所は、天と地を造られた真(まこと)の神が、今から三千数百年前、エジプトで奴隷にされていた古代イスラエル民族を救い出された後、彼らに語られたものです。実は、全ての人が真の神に喜ばれるように生きる上で大変重要な十の戒め、いわゆる十戒が、3~17節に書かれています。3節が第一戒、4~6節が第二戒です。今朝は、最も重要と言えます第一戒に注目致します。
神は語られます。3節「あなたには、私以外に、他の神があってはならない。」
否定的な表現ですが、積極的に言い換えますと、「真の神を神とせよ」ということです。よく考えれば、これは当り前のことと言えますね。とは言え、人間は絶えず神にこう戒めて頂く必要があります。何故でしょうか。まず消極的理由を見ます。
歴史を振り返るとどうでしょう。人は実に色々な神を求め、偶像を作っては拝み、悩みや苦しみを解決しようとしたり、自分の欲を満たそうとしてきました。
しかし、人は何故神を求めるのでしょうか。
聖書は、人は元々、天と地を造られた真の神に応答する者として造られたことを伝えます。神に応答できる所と機能があり、創世記1:27はそれを「神の形」と呼びます。すなわち、広い意味で言いますと、「人格」が与えられています。そのため、伝道者の書3:11が「神はまた、人の心に永遠を与えられた」と言うように、人は有限な存在であるにも関らず、何と永遠者なる神に応答し、神と親しく人格的交流ができ、またそれを楽しめる者に造られたのでした!何という光栄であり幸せでしょうか。
ところが、問題が起りました。創世記3章が伝えますように、人類の始祖は神に背き、幸いな状態から落ちてしまったのです。これがいわゆる堕落と呼ばれるものです。
そのため、人は皆、生れながらに罪の性質を持つようになり、現実にも神に背き、色々な罪を犯し、惨めな者になってしまいました。神との関係が壊れて、神のことがよく分らなくなり、従って、何が神の前に真(しん)に意味や価値があるのかも分らず、自分の経験と直感を中心に善悪や色々なことを判断し、行動する者になりました。
そこで生れたのが偶像の神々です。堕落して神の形は大きく損なわれましたが、残ってはいますので、人は本能的に神を求めるのです。しかし、自分に都合の良い神を想定して、その神を絵に書いて表わし、木や石や金属で作るようになりました。お金や富を神とする人もいます。また、権力を握った人はしばしば自分を神とし、人々に自分を拝ませ、自分に都合の良い社会や国家体制を維持するために、偶像とその宗教を利用したりします。あるいは、自分が人から評価され、地位や名声や人気を得ることが何より嬉しいといった価値観が、無意識の内に自分の神になっている人たちもいます。
また真(まこと)の神を神としませんと、色々なことに影響が出ます。それを十戒との関連で見てみますと、例えば、人の命と人格を軽視し(第六戒)、淫らで性的なことにだらしなく(第七戒)、人の物に手を出し(第八戒)、嘘・偽りを言い(第九戒)、必要でないものまで欲しがる貪欲が生じます(第十戒)。これらは皆、真の神を神としないために起る自己中心性の帰結です。
このままだと、人はどうなるでしょうか。神の前での魂の深い充足やきよい平安や喜びはありません。進んで自分を人に捧げ、仕える愛も人間性も培われません。思いや言葉や行いにも、神の嫌われる偽善的なものが増えます。何と不幸なことでしょう。
それだけではありません。ヘブル9:27が「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」と言うように、死後、人間には全員、神の厳粛な裁きが待っています。その時、悪魔と共に裁かれ、地獄と呼ばれる永遠の滅びに至るなら、何という不幸であり悲惨でしょうか。
真の神を神としないことが、本当はどんなに不幸であるかがよく分ると思います。ですから、「あなたには、私以外に、他の神があってはならない」という第一戒は、こういう悲惨に至らないために神が下さった非常に大切な戒めなのです。
第一戒を心に刻むべき消極的な理由はこれ位にして、次に積極的な理由を見てみます。
消極的理由から類推できると思いますが、それは私たちが造り主なる真の神に喜ばれ、私たち自身も心から嬉しく感謝な、そういうきよい喜び、幸せに与らせられることです。
そのために、聖書はまず私たちに、神の独り子(ひとりご)イエスを救い主として心から信じ、受け入れ、寄り頼むことを教えていますので、これを先に確認しておきます。
繰り返します。人は生れた時から原罪という罪の性質を持ち、神の嫌われる罪を現実にも犯します。従って、心から罪を悲しみ、悔い改めること、そしてご自分の命を十字架で犠牲にしてまで私たちの罪を全て償い、また復活して今天の父なる神の右におられる御子イエスを、自分の救い主・キリストとして心から信じ、依り頼み、罪を赦されたいと思います。
そしてイエス・キリストから決して離れず、イエスに導かれ励まされて、「あなたには、私以外に、他の神があってはならない」という第一戒を大切にしていきたいと思います。
そこで、話を戻します。真の神を神とする積極的理由は何でしょうか。
先程も言いましたが、私たちが造り主なる真の神に喜ばれ、私たち自身も最高に嬉しく、感謝な、そういうきよい幸せに与らせて頂けることです。
では、具体的にはどんな幸せでしょうか。先程と順序を逆にしますが、イエス・キリストを信じて、真の神を神とすることには、第一に、私たちがいつ、どこで、どのように死んでも、永遠の天の国に絶対に入れられるという幸せがあります。
偶像の神には何の力もありません。それは人間が頭と手で作った幻想であり、実体はありません。自分の願望や価値ありと思うものを神とする偶像もありますが、これも空しいです。事がうまく運び、結構満足があるとしても、例えば、人の命と人格を結構軽視し、あるいは、淫らで性的な罪を隠れて犯し、人の物をごまかし、頻繁に上手に嘘をつき、必要でないものまで欲しがって貪欲であるなら、どうでしょうか。
ヘブル4:13は「神の御前(みまえ)にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです」と言います。この真の神の前に、人はそのままなら立てません。
でも、悔い改めて真の神を神とし、神の御子イエスを心から自分の救い主として信じ、寄り頼む者には、悲惨な永遠の裁きはもうありません。いつ、どこで、どのように死んでも、永遠の天の国に絶対に入れられる保証があります。イエス・キリストがその保証であって下さいます。これ以上の幸せがあるでしょうか!
それだけでなく、第二に、生かされている今この世でも幸せです。真の神を神とする第一戒を守ろうとする人は、第二戒も第三戒も、いいえ、どの戒めも自ずと神の前に誠実に守り、人に対しても自分に対しても真実できよく生きようとしないではおられません。このこと自体、既に何と幸せでしょうか。
しかも、第一戒は勿論、十個の戒め全体の中心点というかその心は、マタイ22:36~39でイエスがお教えになりますように、私たちを愛をもって造られた真の神への愛と隣人への愛なのです。どこまでこれが私たちにできるかはともかく、造り主なる神への愛と隣人への愛に生きること自身、人間として何と尊く、感謝で、幸せなことでしょうか。
また真の神を神として、祈りを傾け、力を注いで真実に生きようと努める時、私たちの人格は必ず練り清められ、神に喜ばれる者、それどころか、神の子供として、ますます成長させられます。つまり、今朝、最初の方で申しましたが、罪のために大きく損なわれてしまった素晴らしい神の形が、少しずつ修復され、回復されていくのです。
ということは、真の神を知らず、神との交わりも知らず、仕方なく生きていた私たちが、神のご存在、知恵、御力、きよさ、正しさ、素晴らしい愛と真実も、ますます分る者とされ、また、いつ、どこででも御言葉と祈りを通して、永遠者なる真の神とますます親しく交わることができ、そうして、やがて天の国で神の御顔(みかお)を拝することを許されるのです。
その時、神の前に一生懸命、誠実に歩み、しかし、色々な試練に遭い、辛いこともいっぱいあった人たちの涙を、神ご自身が拭って下さいます。その慰めの時を、聖書はこう伝えています。ヨハネ黙示録21:4「神は彼らの目から涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
真の神を神とすることに、神が伴わせて下さる幸せを、是非、改めて心に留め、また、まだ真の神を知らない多くの方々に、少しでも真の神と救い主イエスを、愛と忍耐をもってお伝えしたいと思います。