2020年09月17日「ぶどうの木と枝 3 愛」

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聖句のアイコン聖書の言葉

5節  私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることが出来ないのです。
     (2017年度版 新改訳聖書)ヨハネによる福音書 15章5節

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 ここ数回、私たちが信仰により主イエス・キリストに留まっていることの大切さを、イエスの語られた葡萄の木と枝の譬から見ています。葡萄の枝は、木に留まっていれば、実を結びます。私たちも、信仰と生活において主に留まり繋がっていれば、実を結ぶことを許されます。

 では、どんな実があるでしょうか。前回は永遠の命について見ました。しかし、それだけではありません。ガラテヤ5:22、23は「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」と言います。これらは御霊が信仰者の内面に結ばせて下さる清い性質を指しますが、イエスがご自分に留まる者に結ばせて下さる実と同じです。今日は「愛」について見たいと思います。

 無論、クリスチャンが皆、優れた愛の人である訳ではありません。それは、あくまで信仰の度合によります。そして真(まこと)のクリスチャンは、むしろ皆、自分の愛の貧しさ、乏しさを思って悲しんでいます。

 けれども、教会に連なり、礼拝や諸集会で御言葉をよく聞き、自分でも聖書をよく読み、主と共に生きようと日々祈り、努め、意識してイエスに留まり続けるならば、やはり違います。いつの間にか、自分が色々な人のことを、無論不十分ですが、それでも尚愛をもって考え、接し、祈る者とされ、愛の人に少しずつ変えられます。それ位で満足していてはいけないですが、イエスはご自分に繋がり、留まり続ける者に、愛という実を必ず結んで下さいます!何と感謝なことでしょう!

 その実例を、私たちは聖書の中に見ることが出来ます。例えば、使徒パウロがいます。十字架に架かって命を献げて下さった主イエスを信じ受け入れる前の、すなわち、バリバリのユダヤ教徒だった頃のパウロには、非常に意志の強い人というイメージはあっても、愛の人という印象は薄いと思います。

 しかし、ダマスコへ向かう途上で復活の主に出会い、心底悔い改め、回心し、クリスチャンとされ、主の働きに召されてからの彼は、違います。例えば、Ⅰコリント13:1以降に書いていますが、「愛がなければ、(私は)騒がしいドラや、うるさいシンバルと同じです。…愛がないなら、私は無に等しいのです。…愛がなければ、何の役にも立ちません」とまで言います。そしてすぐ「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。全てを耐え、全てを信じ、全てを望み、全てを忍びます」と書き、最後に13節「いつまでも残るのは、信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です」と締め括ります。彼がどんなに愛の人に変えられていたかが、良く分ると思います。

 パウロだけではありません。ゼベダイの子ヨハネもそうです。兄ヤコブと共に、ヨハネは若い時からイエスを信じ、イエスに従う一生を歩みました。

 しかし、元々この二人はかなり気性の激しい兄弟だったようです。マルコ3:17によりますと、イエスはすぐそれを見抜き、彼らに「ボアネルゲ」、すなわち、「雷の子」という面白いあだ名を付けられました。

 イエスは後に天に上げられる時が近づき、弟子たちとエルサレムに向って行かれる途中、サマリア人の村に入られたことがありました。しかし、そこの人々はエルサレムに向うイエスを歓迎しませんでした。その時のことをルカ9:54はこう伝えます。「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』」気性が激しく、結構乱暴な兄弟であったことが分ります。

 元はこんなヨハネですが、私たちがヨハネ福音書とヨハネの手紙に見ますように、どんなに神の愛を伝え、信者相互の愛を繰返し勧める人になっていたでしょう。ヨハネ福音書3:16「神は、実に、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることがなく、永遠の命を持つためである。」ヨハネ福音書15:12、13では、イエスの教えをこう伝えています。「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと、これが私の戒めです。人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」

 昔、先輩の牧師から聞いたのですが、伝承によると、最晩年のヨハネも老化が進みました。しかし、いつ何を聞かれても、彼の口から出るのは、「神は愛です」と「互いに愛し合いなさい」だったそうです。葡萄の木であられるイエス・キリストに彼が常に留まり、主イエスと交わってきたことが、彼を愛の人に変えたのでなくて何でしょうか。

 現実の自分の愛の貧しさ、乏しさ、薄っぺらさを思うと情けなく、神に対して申し訳なく思う私たちですが、こんな私たちが愛する主イエスに留まり続けることで、愛のある者へと変えられ、主の愛を証し出来るなら、どんなに感謝なことでしょう!

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