2025年07月24日「主の祈りの学び36 結びの言葉1」

問い合わせ

日本キリスト改革派 岡山西教会のホームページへ戻る

主の祈りの学び36 結びの言葉1

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章9節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

6: 9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 マタイによる福音書 6章9節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 主の祈りを今日も学びます。36回目の今日は、主の祈りの「結びの言葉」について、1647年に作られたウェストミンスター大教理問答に学びます。

 マタイ福音書6:13の第六祈願のあとに来る結びの言葉は、聖書本文のここにはなく、後ろの注にあります。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」がそれです(新改訳聖書2017。文語訳「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン」)。

 しかし、何故、聖書本文の中にないのでしょうか。新約聖書の原本は残存せず、膨大な数のギリシア語写本が残っています。この「結びの言葉」は5世紀の写本の極一部にありますが、他は全て9世紀以降の写本にしかありません。これは、のちに教会がⅠ歴代誌29:11~13のダビデの祈りなどから付け加えたのであり、主イエスご自身の教えられた言葉でなく、聖書本文ではありません。

 ただ、内容が聖書的ですので、教会は伝統的にこれをずーっと唱えてきました。ですから、ウェストミンスター大教理問答はこれを説明して正しく用いようとしたわけです。私たちも、この機会にこれを学んでみたいと思います。

 大教理問答の問196の答を読みます(宮崎彌男訳)。この言葉は、「私たちに、次のことを教えています。すなわち、自分自身や、何であれ他の被造物の中にあるどのような相応しさをも論拠とすることなく、神が示しておられる根拠に基づいて、私たちの願いを一層強くすること、また、神にのみ永遠の主権と全能と栄光に輝く卓越性とを帰する賛美を、私たちの祈りに加えることです。これらのことに関して、神は、私たちを助けることができ、喜んで助けて下さるのですから、私たちは信仰によって心励まされて、神が私たちの求めをかなえて下さるようにと神に嘆願し、神がそうして下さるものと信じて、静かに神に寄り頼むのです。そして、このような自分の願いと確信とを言い表すために、私たちは『アーメン』と言います。」

 長文で少し分りにくいかも知れませんので、これを信徒向けに分りやすく簡潔にまとめたウェストミンスター小教理問答の問107の答を今日は読んでみます。この言葉は、「祈りにおける励ましを神だけから受けるということと、私たちの祈りにおいて、国と力と栄光を神に帰して神を賛美するようにと教えています。そして、祈りが聞かれるようにという願いと、それが確かに聞かれるという確信の証しとして、私たちは『アーメン』と言うのです。」

 大切なことがまとめられて三つ教えられています。時間の関係で、今日は第一点だけ学んでみます。それを小教理問答は「祈りにおける励ましを神だけから受けるということ」だと教えます。大教理問答は私たちにもっと十分に注意を払わせるために、「自分自身や、何であれ他の被造物の中にあるどのような相応しさをも論拠とすることなく、神が示しておられる根拠に基づいて、私たちの願いを一層強くすること」と詳しく教えています。要するに、私たちは様々な願いを真(まこと)の神に捧げますが、その場合、神からのみ祈りの励ましを受けるべきであり、神以外の何かを励ましの根拠としてはならないということです。

 しかし、どうしてこういうことをわざわざ教えるのでしょう。まず、私たち自身に何か優れた所があったとしても、そんなものは祈りの励ましの根拠にはならないという点があります。

 これだけではありません。例えば、ローマ・カトリック教会には守護天使という概念があります。信者一人一人に守護天使がいて、色々な折に信者を守り導くとされ、人が神に祈り願う時にも励ましてくれると考えられて来たでしょう。また優れた信仰者たち(聖アガタ、聖アンブロシウス等々)が、死後、守護聖人となり、人が神に祈りと願いを捧げる時に励ましてくれるということも考えられて来たでしょうね。

 けれども、ウェストミンスター大教理・小教理問答は、これらの考えを退けます。聖書には、真の神以外に向けた祈願はなく、特に真の神のみを頼みとし、希望としていることが見られるからです。例えば、困難の中にいた使徒パウロは、ローマ15:30で三位一体の神にのみ望みを置き、ローマの教会の信徒たちに祈りをこう訴えました。「兄弟たち、私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私と共に力を尽して、神に祈って下さい。」

 旧約時代、不信仰で罪深かったユダ王国はバビロン捕囚という未曽有の厳しい体験をしました。捕囚の地にいたダニエルは、荒廃した祖国とエルサレムを思って嘆き悲しき、例えば、ダニエル書9:4「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守って恵みを下さる方」と呼びかけ、そのあとも神にのみ繰り返し呼びかけ、皆を代表してひたすら罪の赦しと憐れみを神に祈り願いました。主なる神ご自身だけが頼みであり望みであったのです。

 主の祈りの結びの言葉を唱える時、私たちは改めて「そうだ!私たちの祈りの希望は真の神、そして御子・主イエス・キリストにのみある!主よ、あなたを今改めて心から信じます!」としっかり心の中で確認し、自覚をして祈りたいと思います。

関連する説教を探す関連する説教を探す