2025年07月20日「イエスの山上の変貌」
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イエスの山上の変貌
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 7章1節~8節
聖書の言葉
17:1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17:2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
17:3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
17:4 そこでペテロが言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ。彼の言うこのに聞け」という声がした。
17:6 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。
17:7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。
17:8 彼らが目を上げると、イエス一人一人のほかには、だれも見えなかった。マタイによる福音書 7章1節~8節
メッセージ
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「イエスの山上の変貌」と呼ばれる聖書箇所から、今日も大切なことを学びたいと思います。
前回は16:24~28で、私たち罪人の救い主として天の父なる神が遣わされた御子イエスを心から信じ、受け入れ、依り頼む信仰者の生き方の中から、二つを学びました。第一に、イエスが24節で言われたように、私たちが永遠の救いに与る上で大きな妨げとなる古い自我に死に、イエスに従うこと、第二に25、26節で言われるように、私たちの利己的な欲も絡みやすい地上の命を第一とすることと決別することです。
この二つはとても大切です。困難はありますが、これに努めた信仰者に、イエスは27、28節で言われるように、かの世でもこの世でも必ず報いて下さいます。とは言え、24節から26節のイエスの言葉に、弟子たちは少々困惑し、不安も覚えたかも知れません。そこで、そういう彼らを励ますために、イエスは特別な恵みを体験させられました。今朝の聖書箇所がそれを伝えます。
1節「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」この3人だけを連れて行かれたのは、彼らが弟子たちの中で信仰的に一番しっかりした中心的存在だったからでしょう。「高い山」とは標高2815mのヘルモン山と思われます。
しかし、何のためにイエスはこの高い山へ彼らをわざわざ連れて行かれたのでしょうか。先程申しましたように、信仰はありますが、弟子たる者の非常に大事な生き方を教えられ、少々不安も覚えた彼らを励まし、信仰を堅固なものにするためでした。
では、イエスはどのようにそうなさったでしょうか。三つの点を見ます。
第一にイエスは、ご自分が本当は輝く栄光に包まれた神であられることを彼らに示されました。2節「すると、弟子たちの目の前でその御姿(みすがた)が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。」
旧約聖書の出エジプト記34:29は、かつてモーセがシナイ山の上で、全人類にとって最も大切な戒めを与えられた時、神と話をしたために、顔が輝き、光っていたことを伝えています。光は生ける真(まこと)の神とその輝く栄光を表わすものと言えます。詩篇104:1、2でも作者は神に向って「あなたはまことに大いなる方。あなたは威厳と威光を身にまとっておられます。あなたは光を衣のようにまとい、天を幕のように張られます」と言って、神を賛美しました。
マタイ福音書に戻ります。従って、弟子たちの目の前でイエスの御姿が変わり、顔が太陽のように輝き、衣が光のように白くなったことは、イエスのご本質が、本当は栄光に包まれた神であられることを示すものだったのです。もっとも、この時の弟子たちにそれがどこまで分ったかは分りません。しかし、少なくともイエスが単なる人間でなく、神的なお方であることはとてもよく分ったはずです。
そしてこのことは、6日前、厳しいことをお教えになったと弟子たちには思えたイエスですが、彼らはそのイエスへの信仰と確信をどんなに強められたことでしょう。ですから、ペテロは、かなりのちに、Ⅱペテロ1:16「私たちはキリストの威光の目撃者」であると言って、この時のイエス・キリストのお姿を伝え、信仰の戦いの中にあった信徒たちを大いに励ましたのでした。イエスはまず彼らに、ご自分が本当は輝く栄光に包まれた神であられることを示されました。
二つ目に進みます。イエスはご自分が間違いなく、神の御言葉である旧約聖書で預言され約束されていた真(まこと)の救い主であられることを弟子たちに示し、彼らを励まされました。
マタイは伝えます。17:3「見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。」もう一度、申します。モーセは昔シナイ山で神にお会いし、人間にとってとても大切な律法と呼ばれる戒めを神から授けられた人です。その律法・戒めの中心が十戒です。
実はエリヤもⅠ列王記19:8が伝えますように、神の山ホレブ、つまり、シナイ山で神にお会いし、神の言葉を聞いた預言者であり、旧約時代の預言者たちを代表する人でした。
ここと同じようにイエスの山上の変貌を伝えるルカ福音書9:31は、モーセとエリヤが「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していた」と少し詳しく伝えています。
かつてユダヤ人たちは、旧約聖書全体を「律法と預言者」とか「モーセと預言者」などと呼びました。つまり、モーセとエリヤは旧約聖書を代表する人たちであり、この二人と語り合う姿を弟子たちに見せることで、イエスはご自分が旧約聖書に預言されていた神からの約束の救い主であられることを明確に示し、そうして弟子たちを励まし、彼らの信仰を一層確かなものにされたのでした。主イエスの愛が、よく表われていると思います。
第三に、それでもまだよく分っていない所もある弟子たちへ、イエスは愛と憐みと寛容を示し、彼らを励まされました。
この光景を見たペテロはどうしたでしょうか。モーセとエリヤは旧約時代の人たちでしたので、無論、会ったことはありませんが、イエスと彼らとの話の内容から、ペテロは二人がモーセとエリヤだと分ったのでしょう。そこで彼はイエスに4節「主よ、私たちがここにいることは素晴らしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」と言いました。こういうことが口をついて出て来たのです。どんなことを言いたかったのでしょうか。
昔のユダヤでは、幕屋・テントとは、人々がそこで寝起きし、暫く生活できるぐらいのちょっとした住いでした。要するに、この時、ペテロには、色々なことのある下界の普段の状態に戻るのではなく、天国のようなこの素晴らしい所に主イエスを中心に皆でずっと留まりたいという気持ちが生れていたのでしょう。
しかしそれは、今から私たち罪人の身代りとなって神の裁きを十字架で全部受け、私たちの罪の償いを完成しようとしておられる救い主、イエスの歩まれる道ではありません。また、そのイエスに倣って、神に仕え、隣人の救いのために自分を低くして隣人に仕え、福音を証しする光栄ある務めに召されたイエスの弟子、クリスチャンの道でもありません。
ですから、神はペテロが「まだ話をしている間に」、つまり、ペテロの話を途中でさえぎられ、5節「光り輝く雲」で彼らを覆い、雲の中からイエスのことを「これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」と言われ、ペテロの間違った思いを止められたのでした。ペテロは神の御声を聞き、神の御心が自分の思いと違うことも知り、また皆も恐れ、6節「ひれ伏した。」どんなに恐ろしかったことでしょう。
では、イエスご自身はどうされたでしょうか。山の上まで連れて来て、神の御子、また真の救い主としてのご自分とその使命を示されたのにも関らず、まだ十分に分っていない所のある弟子たちでしたが、イエスは7節「近づいて」優しく「彼らに触れ」、「起きなさい。恐れることはない」と言って、彼らを励まされました。何というイエスの愛、憐み、寛容でしょうか。
彼らはこのイエスの愛と憐みと寛容に倣い、この後、神と人と教会にどんなに喜んで仕えたことでしょう。
今日、私たちは、イエスの山上の変貌のような体験をすることはありません。しかし、ここに神が私たちに下さったご自分の御言葉・聖書の素晴らしさがあります。
聖書を通して第一に、主イエスが私たち罪人の救いのために天の父なる神の御許(みもと)からこの世に来て下さった生ける神の御子、子なる神であられることを、私たちはハッキリと、そして豊かに示されます。
聖書を通して第二に、罪とそれがもたらす悲惨、その最たるものが永遠の地獄ですが、そこから主イエスが私たちをただただご自分への信仰を通して、絶対にお救い下さる贖い主、まことの救い主であられることも、私たちは示されます。
第三に、いつまでも理解力が乏しく、信仰も薄く、自分の不信仰と罪、自分の駄目なこと、愚かなことを知って悲しみ、恐れ、塞ぎ込みやすい私たちです。けれども主イエスは、こんな私たちを直ちに切り捨てることをなさらず、むしろ愛と憐みと寛容をもって私たちに手を差し伸べ、触れ、「起きなさい、恐れることはない」と励まして下さる!
このイエス・キリストにひたすら感謝し、ハッキリ神を仰ぎ、皆で主イエスの御声にますます耳を傾け、互いに励まし支え合って、主の御足の跡を堅く踏みしめて行きたいと思います。