2025年07月13日「自分の十字架を負ってイエスに従う」

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自分の十字架を負ってイエスに従う

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 16章24節~28節

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16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。
16:25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを見出すのです。
16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の益があるでしょうか。その命を買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
16:27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちと共に来ます。そしてその時には、夫々の行いに応じて報います。
18:28 まことに、あなた方に言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国(みくに)と共に来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。マタイによる福音書 16章24節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 「自分の十字架を負ってイエスに従う」という説教題を掲げましたが、要するに、私たちの魂の救いのために人間となって世に来られた神の御子イエスを、キリスト、すなわち、救い主と信じるクリスチャンの生き方を、改めて学びたいと思います。

 少し振り返ります。ペテロはイエスに16節「あなたは生ける神の子キリストです」と信仰告白をし、17節「あなたは幸いです」とイエスに言われました。しかし、次にイエスが21節で、私たちを罪と永遠の滅びから救うためのご自分の苦難と死を語られますと、ペテロは22節「主よ、とんでもない」と言ってイエスをいさめました。そこで、イエスは23節「下がれ、サタン」と強くお叱りになりました。ペテロには、神の御言葉によらない自分の勝手な救い主像があったのでした。

 さて、救い主をどう理解しているかは、弟子の生き方に必ず表われます。そこでイエスは、ご自分の弟子・クリスチャンの生き方を24節以降でお教えになります。クリスチャンの生き方と言っても、多くの点がありますが、イエスはここでは二つ語られます。どういうものでしょうか。

 一つは、自我に死に、イエスに従うことです。イエスは言われます。24節「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」

 これは、マルコ、ルカ、ヨハネなど他の福音書も皆伝えている非常に重要なイエスの教えです。

 しかし、自分の十字架を負うとは、どういう意味でしょうか。とても辛い病気や障害、苦しみ、痛み、悲しみなどの不幸を、「これが私の十字架だ」と言う人もいます。けれども、聖書で言われている意味は違います。「自分を捨て、自分の十字架を負って」とイエスが言われますように、自分の十字架を負うとは、自分を捨てることと一体であり、私たちが生れながらの罪深い自我を捨て、自我に死ぬことです。

 自我とは何と厄介なものでしょうか。物事がうまく行くとか、自分が人から高く評価されますと、私たちはつい傲慢になり、自慢したりします。しかし物事がうまく行かず、また自分が批判されたり注意を受けたりしますと、たちまち臍(へそ)を曲げ、ふてくされます。

 自我は、自分にとって「得だ」と思うことですと、身を乗り出し、誰かに言われなくても関わります。しかし、得にならず「面倒だな」と思いますと、関わりません。

 自我は自分をよく見せ、注目されようとします。しかし、他の人の方が優れていますと面白くなく、不機嫌になったりします。

 これは、そのままでは永遠の死に至る外なかった私たち罪人の救い主として神が愛と憐みをもって遣わされた御子イエス・キリストを、心から信じ、仰ぎ、愛し、従うクリスチャン本来の姿から、何と離れていることでしょう。

 クリスチャンは、この世の色々な罪や悪や悪魔・サタンの試みとも戦います。しかし、それだけでなく、自我とも戦わなければなりません。でも自我は何と厄介なものでしょう。

 マタイ福音書7:13、14で、イエスは「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。命に至る門は何と狭く、その道も何と細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです」とお教えになりました。有名な「狭き門」の教えです。永遠の命に至る狭い門から入るためには、神の嫌われるこの世的で利己的な、また不信仰な生き方は勿論、何かと頭をもたげ、プライドの高い自我を捨てなければなりません。

 私たちは、自我に死に、主イエスの御言葉とその御姿(みすがた)にこそ、生涯、従う必要のあることを、今朝再び教えられます。イエスは言われます。マタイ16:24「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」

 さて、イエスの弟子・クリスチャンの生き方のもう一つは、地上の命を第一とすることと決別することです。イエスは言われました。25、26節「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の益があるでしょうか。その命を買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」

 この教えに従い、十字架で命を捧げて私たちの罪を完全に償い(つぐない)、永遠の救いに入れて下さるイエスへの信仰を捨てず、自分の命を捨て、殉教の道を選んだ人たちも、どんなに多くいたことでしょうか。迫害や殉教は、正直なところ、どんなに怖く、恐ろしいことでしょう。けれども、いつか必ず終りの来る短い地上の命と、片や永遠の命と、どちらが真(しん)に大切かをよく考え、しっかり整理しておく必要が私たちにはあります。

 旧約聖書の詩篇49:7、8が「兄弟さえも、人は贖(あがな)い出すことができない。自分の身代金(みのしろきん)を神に払うことはできない。魂の贖いの代価は高く、永久にあきらめなくてならない」と言いますように、私たち罪人は決して自分で自分の魂を永遠の滅びから贖うことはできず、それは神の御子、イエス・キリストだけが可能だからです。

 それと、26節で「たとえ全世界を手に入れても」とイエスが言われるように、地上の命には、富や地位や名声を得たい、手に入れたいといった、人間の欲望と一体であることがよくあります。しかし、人を押しのけ、或いは、がむしゃらに生き、万万々一、全世界を手に入れても、自分の命を失い、私たちの隠れた罪をも全てご存じの神の裁きを受け、永遠の滅びに至るなるなら、何の意味があるでしょうか。

 イエスが語られたルカ福音書12:15~21の「愚かな金持ち」のたとえを思い出します。金持は自分にこう言います。19節「わが魂よ、これから先、何年分もいっぱい物が貯められた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」しかし、神は彼にこう言われました。20節「愚か者、お前の魂は、今夜お前から取り去られる。お前が用意した物は、一体誰の物になるのか。」

 地上の命を第一としてそれに固執する生き方と決別し、愛と力に満ちた神の計画と導きに命を委ね、神を第一とする生き方!これがクリスチャンの生き方の二つ目です。

 無論、これら二つの生き方は決して簡単ではありません。信仰の薄い私たちは、分ってはいても、つい二の足を踏みます。

 そこでイエスは、こんな私たちを二つの面から励まされます。どういう励ましでしょうか。

 第一は、世の終りに、イエスが今度は裁き主として再び来られる時に、信仰者に必ず報いて下さることです。

 イエスは、ご自分を「人の子」と呼び、こう言われます。27節「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちと共に来ます。そしてその時には、夫々の行いに応じて報います。」

 御言葉に従い、神に忠実だった人には、必ず報いがあり、「主よ、どうしてあなたは私にこんなに良くして下さるのでしょうか。私はただすべきことをしただけですのに」と言って、主のまばゆいばかりの栄光に与(あずか)り、感謝と喜びの涙を流している自分自身を発見することでしょう。

 もう一つあります。それは、私たちが生きている間に与えられる励ましです。イエスは言われます。28節「まことに、あなた方に言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国(みくに)と共に来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

 「人の子が御国(みくに)と共に来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます」という意味については、いくつか解釈がありますが、細かい説明は省きます。要するにここは、苦労や涙はあっても神に忠実に生きている人は、「あぁ、主イエスはこういうふうにここに来て下さり、ここにおられ、御国の素晴らしさを私にも分からせ、味わわせて下さっている!イエス様、感謝致します!」と、今、この世に生きている間にも、神の知恵や力、聖さ、正しさ、愛や慈しみ、真実などを必ず味わうことを許されるという約束です。実際、どんなに多くのクリスチャンがそれを味わい、励まされ、ますます神に喜ばれようとして生きていることでしょうか。

 クリスチャンの生き方には、苦労はあります。でも、イエスの御言葉に従い、主イエスに倣って神と隣人を愛し、自分を低くして神と人に仕えようとして生きること自体、神に喜ばれる何と真実な生き方でしょうか。しかも決して空しく終ることはありません!神は必ず約束を果たされ、小さな私たちにも必ず報いて下さるからです!

 ですから、互いに励まし合い、主イエス・キリストの御声(みこえ)に絶えず耳を傾け、御足(みあし)の跡を、是非、ご一緒に踏み締めて行きたいと思います。

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