2025年07月03日「主の祈りの学び33 第六の祈願5」

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主の祈りの学び33 第六の祈願5

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章9節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

6: 9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 マタイによる福音書 6章9節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 今日も主の祈りを学びます。通算で33回目、第六祈願では5回目となります。

 私たちは、信仰の先輩たちが告白した文書から沢山学んで来ました。今日は1647年にできましたウェストミンスター大教理問答(宮崎彌男訳)に学びます。第六祈願を扱う問195は非常に長く、今日は前半を見ます。実際には前半だけでもかなり長いですが、読んでみます。

 「第六の祈願において、私たちは、いとも賢く、義(ただ)しく、恵み深い神が、様々なきよく正しい目的のために、私たちが試みによって攻め立てられ、挫(くじ)かれ、一時的にとりことなってしまうようにとお定めになることがあること、また、サタンと世と肉とが、強引に自分の方へと私たちを引き寄せて、罠にかけようと身構えていること、さらに、私たちが罪の赦しを受けた後でさえも、自らの腐敗と弱さと警戒不足の故に誘惑に陥りやすく、また進んでわが身を誘惑にさらそうとしがちであるだけでなく、自分自身の力では誘惑に抵抗することも、そこから立ち直ることも、これを生かして用いることもできず、またそう願うこともせず、むしろその力の下に放置されるにふさわしいものであることを認めた上で、次のことを祈ります。」

 ウェストミンスター信条を作成した信仰の先輩たちの広範な聖書知識とその的確な理解に立つ深い信仰を覚えさせられます。

 ここで第一に教えられることは、最終的には私たちの益になるのですが、私たちが試みを受けることを神が目的をもって許容されることがあるという点です。大教理は言います。「いとも賢く、義しく、恵み深い神が、様々なきよく正しい目的のために、私たちが試みによって攻め立てられ、挫かれ、一時的にとりことなってしまうようにとお定めになることがある」と。

 大教理は証拠聖句としてⅡ歴代誌32:31を上げています。そこは、ヒゼキヤ王についてこう伝えます。「バビロンの首長たちが、この地に示されたしるし(=恵みの奇跡のこと)について調べるために彼のもとに使節を遣わした時、神は彼を試みて、その心にあること全てを知ろうとして彼を捨て置かれた。」

 ヒデキヤに信仰はありました。しかし、愚かな面があり、Ⅱ列王記20章が伝えますように、バビロンからの使者に、彼は調子に乗って得意げに国中の宝を全部見せ、そのため、やがてバビロンに攻められ、全てを奪われることになります。聖書はヒゼキヤがこういう愚かなことをするのを神が許容されたことを伝えます。

 これはヤコブ1:13が言いますように、神が悪へと誘惑されたのではありません。けれども、「いとも賢く、義しく、恵み深い神が、様々なきよく正しい目的のために」、一時、こういうことを許容されることがあるということを大教理は教え、私たちが浅い知識と考えとによって神を誤解することなく、へりくだるべきことを教えられます。

 第二に大教理は、「サタンと世と肉とが、強引に自分の方へと私たちを引き寄せて、罠にかけようと身構えていること」と言います。ですから、私たちが霊的に絶えず目覚めていること、そして「サタンと世と肉」が隙あらば私たちを罠にかけようと身構えていることを忘れず、警戒を怠ってはならないと戒めます。何と大切なことでしょうか。何度も引用しますが、Ⅰペテロ5:8がこう教えていることを私たちは決して忘れてはなりません。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたの敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています」と。

 第三に大教理は、「私たちが罪の赦しを受けた後でさえも、自らの腐敗と弱さと警戒不足のゆえに誘惑に陥りやすく、また進んでわが身を誘惑にさらそうとしがちであるだけでなく、自分自身の力では誘惑に抵抗することも、そこから立ち直ることも、これを生かして用いることもできず、またそう願うこともせず、むしろその力の下に放置されるにふさわしいものであることを認めた上で」と言い、私たちが信仰を持った後も、どんなに霊的に弱いかを認識すべきことを徹底的に教えます。

 詩篇81:11、12で神はかつて言われました。「私の民は私の声を聞かず、イスラエルは私に服従しなかった。それで私は、彼らを頑なな心のままに任せ、自分達のはかりごとのままに歩ませた。」

 実際、私たちは神に放置されるにふさわしい頑なで愚かな存在に他なりません。ですから、決して自分の弱さを甘く見てはならないことを強く教えられます。

 「今日、もし御声(みこえ)を聞くなら、あなた方の心を頑なにしてはならない。神に逆らった時のように」というヘブル3:15の御言葉に従えるように、私たちと同じように様々な試みに遭われながらも、全てに勝利された慈しみ深い主イエス・キリストを仰ぎ、信じ、寄り頼み、助け主なる主の御霊を心の底から真剣に求めたいと思います。

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