2025年06月22日「人生の羅針盤」
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人生の羅針盤
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ヘブライ人への手紙 11章8節~16節
聖書の言葉
11: 8 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けた時に、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。
11: 9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。
11:10 堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。
11:11 アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束して下さった方を真実な方と考えたからです。
11:12 こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。
11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
11:14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。
11:15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。ヘブライ人への手紙 11章8節~16節
メッセージ
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もう少しで子供たちは夏休みを迎えますね。学生時代の夏休みに、私は地図と列車の時刻表を持って友だちと時々旅行をしました。また少し前まで、車で知らない所へ行く時には地図に頼りましたが、今では人工衛星からの電波を拾うカーナビ(カー・ナビゲーター)を使って目的地へ向います。とても便利になりました。
ところで、人生はよく旅に例えられます。旅の長さや内容は人によって色々ですが、人は生れた瞬間から旅を始めていると言えます。また、私たちは明日のことについて大体の予想はできても、実際には明日にならないと分らず、私たちは常に未知なる旅を続けていると言えるでしょう。そうであるなら、私たちの人生にも常に正しい道を示し導いてくれるナビや羅針盤のようなものが必要だと思うのですが、如何でしょう。
旅する者としての私たちの人生を、実は聖書も教え、その一人、アブラハムをヘブル人への手紙11:8以降がこう紹介します。8節「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けた時に、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」
アブラハムは4千年位前の人であり、詳しくは創世記11章の終りあたりから伝えられています。彼は今のイラクかクウェート辺りにあったウルという町に住んでいました。考古学の発掘調査によりますと、ウルは物質的に繁栄した町でしたが、月を神とする偶像崇拝が盛んで、他にも色々な偶像が拝まれていました。
アブラハムは、やがて親族や他の者たちと共にウルを出て、ハランという町まで行き、その後、今日のパレスチナに移りました。ウルからは2千キロ近い大変な旅であり、創世記によりますと、ハランを出た時、彼はもう75歳でした。何故そんな旅をしたのでしょうか。天地の造り主なる生ける真(まこと)の神に命じられ、促されたからでした。
8節に「どこに行くのかを知らずに」とあります。彼がその頃のパレスチナを何も知らなかったというのではありません。当時も人々は結構行き来していました。しかし、聞いてはいても、実際にそこへ行って見ると随分違っていた、ということはよくありますね。その意味で、アブラハムは「どこに行くのかを知らずに」出発したのでした。
しかも到着したパレスチナでも、9節「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束を共に受け継ぐイサク、ヤコブと天幕生活を」し、つまり、移動しやすいテント生活を続けたのでした。これを13節は次のように言います。「…約束のものを手に入れることはありませんでしたが、遥か遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」つまり、彼は旅人また寄留者として最後まで生活し、彼の求めていた本当の目的地は16節「天の故郷」であり、神が用意しておられた天の「都」だったのでした。
創世記が伝えますように、人生の折々に神の語りかけを聞き、神の言葉に従って歩んだアブラハムの一生は、示唆に富んでいると思います。私たちの人生も、本当は行き先を知らない旅であり、明日、明後日でさえ何が待ち受けているか分りません。
しかし、アブラハムは絶えず神の言葉に聞き従い、神の言葉を人生の羅針盤にしました。苦難や試練が人生の途上で次々と襲い、彼は弱さのために失敗したこともありました。でも彼は神の言葉に聞き従い、神の約束を信じ、永遠の天の都を仰ぎ見る希望に生き、175歳の人生を全うし、生涯を通じて神と人に仕え、神は約束通り彼を天の都に迎えて下さったのでした。
では、アブラハムが人生の途上で何度も聞き従い、励まされ、軌道修正し、ついに天の都と救いの完成に至ることのできた神の言葉という人生の羅針盤を、私たちは、今日、どこに見出せるでしょうか。聖書です!聖書という神の御言葉こそ、私たちの最も大切な人生の羅針盤なのです。詩篇119:105は神にこう歌います。「あなたの御言葉は、私の足の灯、私の道の光です。」またパウロは弟子のテモテにこう書きました。テモテへの手紙 第二 3:15「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書は全て神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」
神が私たちに下さった聖書という人生の羅針盤は、この世が如何に変ろうとも、決して変ることのない永遠の真理です。イエスは言われました。マタイ福音書24:35「天地は消え去ります。しかし、私の言葉は決して消え去ることがありません。」ペテロの手紙 第一 1:24、25も言います。「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に立つ。」
ところで、アメリカの社会学者D・リースマンは、現代人を羅針盤型とアンテナ型に分けました。羅針盤型の人とは、自分の中に自分を制御する方向指示器を持つ人です。内面に正しい良心や宗教的信念、信仰を持っている人のことであり、自分を律して行く規準を持っている自律的人間と言えます。
一方、アンテナ型の人とは、いつもアンテナを張り、電波がどこから来るかを気にし、常に世間の動きに注意を払い、回りの人と同じように行動しようとし、自分がなく、他人指向と言えます。そして、こういうタイプの人が現代社会では増えている、と言いました。
しかし、回りの人に合わせていれば、大丈夫なのでしょうか。アフリカにスプリングボックという鹿に似た動物がいます。集団行動をし、時々暴走して湖の中に飛び込んで溺れ死ぬことがあります。先頭を走っている一頭が方向を間違えると、あとに続く者はただ前の者が走った後ろや隣りの者が走るのに合わせて走るため、そういう悲劇が起るのだそうです。これは、アンテナ型の人の多い人間社会に対する警告ではないでしょうか。
無論、羅針盤型の人が皆正しいのではありません。自分の羅針盤に十分な客観性もありませんのに、自身過剰で独善的なため、自分を滅ぼす人も少なくありません。どんな羅針盤でも良いのではなく、生れながらに色々な弱さや欠けや罪の性質を持つ私たちを、正しく導いてくれるものであることが必要です。
感謝なことに、先程言いましたが、私たちにはアブラハムと同じように、今や神の御言葉・聖書という人生の羅針盤を与えられています。船の航海のように、私たちの人生にも、比較的物事が順調に進む順境の時もあれば、全てが裏目に出るようにしか思えない逆境の時もあります。船の航海には晴れの日もあれば曇りの日もあり、嵐で大揺れの日、また昼も夜も深い霧に囲まれ、前後左右何も見えず、恐ろしく不安な日もあります。
しかし、絶望する必要はありません。どんなに霧や暗闇が襲っても、羅針盤や正しいナビさえあれば、船は正しい方向と航路を選んで目的地に向って進んで行けます。
船自身の具合が悪いなら、少し休んで修理し、再び前進すればいいのです。人生も同じですね。少しも物事が思うように進まないように思える苦しい時や、後ろや横に流されているように思える更に辛い時もあります。でも、焦らず、聖書の御言葉に信頼し、忍耐強く御言葉に従い、ゆっくりでもかまいません。進んでは、暫く止って休んでもかまいません。正しい方向性さえ保っているなら、やがて危険な所も通過し、濃霧に囲まれて何も見えなかった状態もいつしか晴れ、明るい光の中を目的地に向って前進している自分自身を発見することを許されるでしょう。
それだけではありません。聖書という人生の羅針盤を持って正しい方向に進んでいるなら、今度は、私たちが他の人に正しい方向を示し、微力ではあっても力を貸し、私たち自身が他の人の羅針盤となってあげることもできます。何と尊い奉仕でしょうか。
今、日本も世界もますます混迷の度合いを深めています。しかし、独り子(ひとりご)イエスを賜ったほどに私たちを愛しておられる全知全能の天の父なる神は、私たちの人生の羅針盤、聖書を下さっています。この羅針盤により、イエス・キリストの下さる罪の赦しと永遠の命の道を進み、最後に永遠の天の都に入れられる感謝な人生を、是非、ご一緒に歩みたいと思います。
最後に、ご参考になればと思い、常日頃、私が羅針盤としている御言葉を、今朝は三つだけご紹介して終りたいと思います。
一つ目は、辛い苦しみや試練の時に心に留めたい御言葉です。コリント人への手紙 第一 10:13「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さいます。」
二つ目は、ローマ人への手紙8:28です。「神を愛する人たち(=神を本当に大切にする人たち)、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる。」あとになって、「あのこともこのことも、あぁ、私のためにこんな風に益になったのだ!」と、驚きと感謝を覚えることを許されるでしょう。
そして三つ目は、「このままで私は食べていけるのだろうか、こんなことで私は生きていけるのだろうか」と将来が心配で、たまらなく大きな不安を感じる場合の御言葉です。主イエスは言われます。マタイ福音書6:33です。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て加えて与えられます。」神の清いご支配、また自分が神に本当に喜んでいただける者になることを何より第一に求めて生きる時、天の父なる神は、私たちが生きる上で必要なものを必ず与えて下さるという約束です。