2025年06月15日「こころに記されたもの」

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こころに記されたもの

日付
説教
牧田 創 神学生
聖書
エレミヤ書 31章31節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

31:31 見よ、その時代が来る--主のことば--。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った--主のことば--。
31:33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである--主のことば--。わたしはわたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ--主のことば--。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起さないからだ。」エレミヤ書 31章31節~34節

原稿のアイコンメッセージ

〈 序論1 こころの中にあるもの 〉

 わたしの心の中には何があるのか?わたしは心の中に何を持っているのか?

 これは、キリスト教信仰を持っている、持っていないに関わらず、すべての人にとって大切な問いであると思います。「心の中にあるもの」が、「その人そのもの」と言っても言い過ぎではないと思うからです。主イエスはある時、「人の口は、心に満ちていることを話す(ルカ6:45)」と言われました。そして、その人が表れるのは、その人の口から出る言葉だけではありません。その人の目、表情、一つ一つの仕草、それら全てに心の中にあるものが表れてきます。もっと言うならば、その人の生き方そのものが、心の中にあるものによって方向づけられると思います。

 また別の問題もあります。それは、「心の中に何もない」という問題です。「心がからっぽ」だと感じる時、人は途方に暮れるということもある。このように考えていくと、「わたしは、こころの中に何を持っているのか?私の心の中には何があるのか?」という問いは、若い人にとっても、またどれだけ歳を重ねたとしても、大切な問いであり続けるのだと思います。

〈 序論2 「新しい契約」の預言の背景 〉

 そして、この問いについて深く考えさせてくれるのが、預言者エレミヤが今からおよそ2,500年前に語りました今朝の言葉であると思うのです。エレミヤは、この言葉を絶望のどん底にあった同胞である南ユダ王国の人々に語りました。彼らはバビロニアに滅ぼされ、彼らにとって最も大切であったエルサレム神殿を破壊され、自分たちの土地を追われ、捕囚の民としてバビロンに移送されました。まさにすべてが失われた。そのような絶望の中にあった人々にエレミヤが語ったのが、今朝お読みしました「新しい契約」を告げる言葉であります。

 普通に考えれば、2,500年前に語られた言葉が、今を生きる私たちの心と一体どのような関わりがあるのか、と思われることでしょう。しかし聖書の言葉は神の言葉であるが故に、今も生きた言葉として立ち続けており、エレミヤが語りました「新しい契約」の言葉も、私たちの心のありようについて大切なことを示してくれていると思うのです。そのことを今朝は共に見ていきたいと願います。

〈 本論1 契約とは神の人間との人格的交わり 〉

 預言は次のように始まります。

 「見よ、その時代が来る – 主のことば - 。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。」

 イスラエルの家、ユダの家とあります。イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまったのですが、元々は一つの民でありました。もう古い映画になってしまって若い方々はもう分からないかもしれませんが、チャールトン・ヘストンがモーセを演じた映画「十戒」で描かれていましたように、神はそのイスラエルの民をエジプトでの奴隷としての重労働から、その手を取るように救い出し、そしてシナイ山で彼らと契約を結ばれるのです。

 「契約」という言葉。これは聖書において、とても大切な言葉です。その意味をここで語り尽くすことはできませんけれども、そのことを前提にしつつあえて言うならば、「契約」とは「神が私たち人間をご自身との人格的な交わりに招いてくださること」と言えるのではないかと思います。「人格的な交わり」ですから、お互いの「意志」を通わせることが必要です。神にとって人間の意志は明らかでしょう。しかし神の意志を人間はどのように知ればよいのか。そこで神がご自身の意志を示すために、イスラエルの民にお与えになったのが十戒、すなわち「律法」でありました。

 イスラエルの民は、神の意志である律法をすべて行い、守ると言い、それ故、神は彼らと契約を結ばれたのです。「わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約」とある通りです。そのようにして、イスラエルの民は「律法」を通して神の意志を知り、神との人格的な交わりに招かれたわけです。

 しかしシナイ山で契約を結んだ後、イスラエルの民はひたすら神の律法に背き続けます。エレミヤは、神に逆らい続ける同胞に対し、悔い改めて神の声に聞き従うように、そうしなければ神の裁きは避けられないと、およそ40年間にもわたって必死に訴え続けます。しかし奮闘も虚しく、32節後半に「わたしが彼らの主人であったのに、彼らはわたしの契約を破った」とありますように、民は悔い改めることをせず、ついに南ユダ王国は滅ぼされ、イスラエルの人々は捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになったのです。

 今朝、ともに読んでいますこの「新しい契約」の預言をいつエレミヤが語ったのか、それは明確にはわかりません。けれども私には、この預言はイスラエルの民が裁きを受け絶望の底に沈む時、しかし神がその民を憐れんでお与えになった言葉のように思えるわけです。少し前の30章20節には次のようにあります。「エフライム(これはイスラエルのことですが)は、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」神はイスラエルを責めるたびに、はらわたがよじれるように苦しむ。そのようにイスラエルを憐れまずにはいられない。この箇所を読むと、創世記において神が人間の悪を洪水により裁いた後、ノアに二度と洪水によって地を滅ぼすことはないと言われ、空に虹をかけられたあの場面を思い出すのです。

 人間の世界は、神を神とも思わず、まるで自分が神であるかのように振る舞う人間の闇で包まれた世界であると言わざるを得ません。それでも神はご自身が創造された世界を憐れまれる。今朝の「新しい契約」の預言は、まさにその神の憐れみのしるしに思えてならないのです。

〈 本論2 「新しい契約」の新しさ ①:心に記された律法 〉

 「新しい契約」という時、何が新しいのでしょう。神がイスラエルの民とシナイ山で結ばれた契約と比較してエレミヤがここで語る契約は、何が新しいのでしょう。33節には次のように記されています。

 「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである − 主のことば − 。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

 「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」これはシナイ山での契約で神が語られた言葉と同じです。ですから、契約の根本的内容は同じであるということです。契約とは、やはり神が人間との人格的交わりに入ってくださるということです。

 では、新しい契約の持つ新しさとは何か。それは神が「わたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にそれを書き記す」と言われていることです。「律法」と言いますと、守らなければいけないものといいますか、どこか厳しいもの、という印象をお持ちになるかもしれません。もちろんそのような厳しい一面は確かにあります。しかし「律法」とは第一に「神の意志を表すもの」であります。「神が律法を与えてくださる」ということは、言い換えれば「神が私たちにご自身の意志を教えてくださる」ということです。「律法」が与えられなければ、私たちは神の意志を知ることもなく、神といかなる人格的な関係を持つこともできないわけです。ですから、「律法」を与えられるということは、神が私たちをご自身との交わりに招いておられるという「恵み」のしるしでもあるのです。その律法を神は人の中に授け、人の「こころ」に記す。これが新しい契約の持つ、新しさであります。

 シナイ山では、神はご自身の「律法」を2枚の石の板に記し、モーセに渡しました。イスラエルの民は「律法」が記されたその2枚の石の板を「契約の箱」と呼ばれる箱に収め、それを安置した幕屋を中心に生活をしました。そこに「神がおられる」と考えたからです。エルサレムに神殿が建てられると、その契約の箱は、神殿で最も神聖なる場所に収められました。「律法があるところ」は、「神がおられる」場所であったわけです。

 「わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にそれを書き記す。」私たちの内に律法が与えられる。私たちの心に律法が記される。それは他でもない、神が私たちの内に住まわれるということであります。しかし、それはどのようにして起こるのでしょうか。

〈 本論3 「新しい契約」の新しさ ②:赦された罪 〉

 ある説教者が、今日の箇所についての説教で次のように言っています。「エレミヤはイエス・キリストを知らなかった。しかし、主イエスはエレミヤを知っていた。」もっと言うならば、主イエスは今日私たちが読んでいるエレミヤの「新しい契約」の言葉を知っておられたはずであります。そしてそれがご自分についての言葉であるとも知っておられたはずであります。そのことを証明する箇所を共にお読みしたいと思います。可能な方は、新約聖書の165ページをお開きください。ルカによる福音書22章20節をお読みいたします。「食事の後(あと)、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたために流される、わたしの血による新しい契約である。』」エレミヤがイスラエルの民に語りました新しい契約、それを主イエスはわたしの血による新しい契約だと言われました。

 どうして、神は不従順であったイスラエルの民と新しい契約を結ぶと言われたのか。どうして、神は不従順である私たちと契約を結び、ご自身との人格的な交わりへと招いてくださるのか。それはただ、主イエスが十字架の上で流された血によって、神が人間の罪の一切をお赦しになられるからです。エレミヤ書31章に戻っていただきますと、今日の箇所の最後、34節の最後にそのことが記されています。

 「私が彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

 最後が「からだ」と、理由を表す言葉で終わっています。神が人間と新しい契約を結び、ご自身との交わりに私たちを入れてくださる唯一の理由。それは、主イエスが流された血によって、私たちの不義が赦され、もはや私たちの罪を神が思い起こされることがないということです。

 エレミヤが2,500年前に語った言葉、その言葉をイエス・キリストは引き受けて、私たちの身代わりとして十字架で血を流された。そして私たちの罪に勝利し天に上げられ、そこから私たちの内に聖霊を与えてくださる。これが新しい契約の決定的な新しさです。聖霊によって私たちの心に神の律法が、神の意志が書き記された。もっと言うならば、そのようにして私たちの心の中に、聖霊なる神が住まわれる。そのようにして私たちは、神と意志を通い合わせる交わりの中へと入れられているのです。

〈 本論3 「神を知る」者となる 〉

 「彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれの兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ。」

 34節の言葉です。これはどういう意味でしょうか。

 「知る」という言葉も、聖書の中で大切な言葉です。なかでも「神を知る」という言葉は特に大切です。聖書の中で「知る」という言葉は、ただ知的に知るということを意味するのではありません。聖書の中で「知る」というとき、それは親密な関係や行為を伴います。ある神学者は、聖書で「神を知る」ことは「神を愛する」ことだと言いました。

 「主を知れ」とは「主を愛せよ」ということです。「主の意志を行え」ということです。

 私たちは到底、自分の力で神の意志を行うことなどできません。しかし、罪赦され、心に神の律法が記されたということは、私たちの心に聖霊が与えられたということです。私たちの内に住んでくださる聖霊が、神の意志を行う力を与えてくださったということです。そのようにして神の意志が、私たちの言葉や行為に現れてくるということです。お互い外から教えられるのではなくて、聖霊によって内側から私たちが主を知るように、すなわち神の意志を行うように徐々にされていくのであります。そのとき、私たちはもはやお互いに外側から「『主を知れ』と言って教えることはない。」聖霊によって内側から、身分の低い者も高い者も、要するにすべての人が、神を知る者、すなわち神を愛する者、神の意志を行う者とされていくからです。

〈 結論 私たちのこころにあるもの >

 エレミヤの今朝の言葉を深く心に留めていたのがパウロです。パウロはコリントの教会の人々に手紙で次のように書き送りました。最後にその言葉を共にお読みしたいと思います。コリント人への手紙 第二、3章3節、新約聖書358ページです。

 「あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。」

 生ける神の御霊によって、人の心の板に神の律法、すなわち神の意志が書き記された。あなた方はそのような存在なのだ、あなたがたは「キリストの手紙」なのだとパウロは記しました。

 私たちは心の中に何を持っているのか。今日のエレミヤの言葉によれば、私たちの心には神の律法が記されている。神の意志が記されている。それは言い換えるならば、私たちの心の中に聖霊がおられるということです。

 パウロは「新しい契約」に生きる者を、御霊によって神の意志がその心に書き記された「キリストの手紙」だと言いました。手紙は相手に自分の意志を伝えるために書きます。キリストは、私たちを通してご自身の意志を世界に伝えようとされているということです。それは何か大それたことをしなさいということではありません。そうではなくて、私たちが毎日発する言葉を通して、私たちが隣人に向ける表情や仕草を通して、その小さな行為の一つ一つを通して、神の意志を人々に伝えるのであります。そして、それは自分の力でするのではありません。「神が」私たちの心にご自身の意志を書き記してくださった。それは私たちが神との交わりに生きることを意味します。神との交わりですから、それは永遠の交わりです。ですから、神の手紙として生きる光栄に、それぞれ置かれた場所で、生かされたいと願います。それが新しい契約に生きる私たちの歩みであり、それは私たちをやがて、神との永遠のまったき交わりへと導くのであります。

 お祈りいたします。

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