2020年09月13日「和解」

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
5:23 ですから、祭壇の上に供え物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、
5:24 ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。
5:25 あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。
5:26 まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。
    (新改訳聖書2017年度版)マタイによる福音書 5章21節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 前回は5:21以降のイエスの教えから、十戒の第6戒を犯す罪として、人に怒りを持ち続け、人を知的に人格的に侮辱することの罪深さを学びました。

 この点で自分を省みることは、誰にとって辛いと思います。皆、大なり小なり覚えがあるからです。しかし、これも福音です。そもそもイエスが語られたのは、私たちを断罪すること自体が目的ではなく、私たちが気付かず、しかも私たち自身をも滅ぼす罪に気付かせ、悔い改めさせ、そうして私たちを天の国へ入るに相応しい人格へ清めるためだからです。

 優れた医者は、外に現れた病や症状だけでなく、奥に潜む病巣まで探り、根本から治療します。魂の医者、魂の名医イエスは、私たちを愛する故に、人に対する私たちの態度や言葉の奥に潜む危険な罪を指摘し、私たちを根本から救おうとしておられるのです。

 魂の救いは赦しだけではありません。清くなってこそ本当の救いです。そこには痛みが伴います。自分の罪や不信仰を知り、それを直視することは、辛いですが痛みが伴います。ですが、主イエスは、そのようにして悔い砕けた魂を、私たちの痛みの何倍にも優る赦しと愛をもって必ず癒して下さるのです。神は言われます。イザヤ66:2「私が目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、私の言葉におののく者だ。」イエスも言われます。マタイ5:4「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

 さて、今朝教えられるのは、人との和解が如何に大切かという点です。イエスは言われます。23、24節「ですから、祭壇の上に献げ物を献げようとしている時に、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、献げ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、その献げ物を献げなさい。」

 昔のユダヤで祭壇に献げ物をするというのは、会堂での通常の安息日礼拝ではなく、エルサレム神殿へ行って行う特別な礼拝のことです。それで、もし誰かが自分を恨んでいることを思い出したなら、そんな大事な特別な礼拝の前でも、すぐその人の所へ行き、和解せよということです。こうして、イエスは和解の重要性を強調しておられます。

 では、何故それ程、和解は大事なのでしょうか。23節に「ですから」とあります。ということは、ここはその前の21、22節と関係しています。つまり、一つの理由は、怒りや恨みの持つ危険性のためです。創世記が伝える通り、怒ってカインは弟アベルを殺し、エサウは弟ヤコブを殺そうとしました。

 米国でかつて何度か高校生が学校で銃を乱射し、大勢の人を殺傷する事件が起こりました。どれも原因は誰かへの恨みです。どのように侮辱されたのか、実際の程度は分りませんが、普段我慢している怒りや恨みが募りますと、ついに爆発し、殺人にまで暴走します。自分を否定されたと感じる屈辱感から来る怒りは、とても危険です。ですから、和解は極めて重要です。

 和解が大事な第二の理由は、反感を抱いている人に罪を犯させないためです。爆発しなくても、怒りや恨みは人の心を蝕みます。その人がクリスチャンであっても同じです。聖書に二心(ふたごころ)という言葉があります。クリスチャンであっても罪の性質が残っているため、その心はいつも神に向って一つであるわけではありません。神を賛美し、その一方で人を恨み、苦々しい思いを抱いていることだってあります。人の心は複雑です。御霊により完全に聖化され、天国で救いが完成する時まで、人の心には常に矛盾があります。

 とにかく怒っている人が罪を犯さず、恨みの感情で心が蝕まれたりサタンに付け込まれることがなく、むしろ心を和らげられ、最後には救われるためにも、その人との和解がとても大切です。

 主イエスによれば、特に大事なのは、誰かが私たちを恨んでいることを知ったならば、それを知る私たちの方から出向き、その人と仲直りすべきことです。

 私たちは、誰かと自分が旨く行っていないのを知る時、相手に非があるなら、相手がまず詫びるべきで、こちらから出向く必要はないと、つい考えます。けれども主イエスは、相手の怒る理由やその反感が正当かどうかには触れておられません。私たちの側に非があるなら、当然、私たちの方から行って謝り、和解すべきですが、イエスによれば、私たちに非がなくても、まず私たちの方から仲直りすべきなのです。

 これは簡単ではありません。私たち罪人は決して自分から先に謝りたくない。自分に落ち度のある時でさえ、それを認めたくなく、理屈をこねて自分を正当化しようとします。相手に問題のある時は尚更です。

 しかし、イエスは「問題を知ったあなたが、まず出かけなさい」と言われます。それ程、和解は大事だということです。

 随分前のことです。当時、私が牧師をしていたある教会の一人の高齢の男性信徒が私たち夫婦に腹を立てていると他の方から聞き、大変驚き、困りました。しかし主の教えを思い、私たちの方から彼の所へ行って話を聞こうと決め、すぐその日に出かけました。

 最初、彼は堅い表情でしたが、とにかく私たちは身を低くし、私たちが気付かずに気持を害する失礼なことをしていたなら謝りたいと言いました。すると彼も話し出しました。よく聞きますと、私たちのある行動に対する誤解であることが分り、丁寧に説明しました。彼は分ってくれました。そして笑顔で握手をして帰ることができ、その後、彼が天に召される時までお世話出来ました。主の教えに改めて感謝し、御言葉通り、他の大事なことを後回しにしてでも、まず自分から出向き、極力早く和解することの大切さを教えられました。

 しかし、通常、私たちは自分からは腰を上げたくありません。特に相手に非があることが明らかな場合、どうしてこちらから出向く必要があるかなどと思ったりもします。が、ここでよく考えたいと思います。正(まさ)に神ご自身がそれを私たちにして下さったのではないでしょうか。

 創り主なる真(まこと)の神に背を向け、無視し、知りもしないのに神のことを何だかんだと言っていたのは、私たちです。神はどんなに不愉快でしょう。怒って、即刻、私たちを地獄へ裁いても変ではありません。ところが、何と神は御子(みこ)を世に遣わし、御子の命を犠牲にしてまでも私たちに和解の手を差し出されました。Ⅱコリント5:18の言う通り、「神はキリストによって私たちをご自分と和解させ」て下さったのでした!神にはそんな義務はありません。私たちが勝手に神を拒んでいたのですから。けれども、神はご自分の方から手を差し出されました。それなら、何故私たちも人に和解の手を差し出す努力をしないでおられましょうか。

 最後に、神との和解が誰にもすぐ絶対に必要であることを学んで終ります。

 25、26節のイエスの御言葉は少し分りにくいと思います。要するに、私たちに怒り、私たちを訴える人との間の問題の深刻さを、当時のユダヤの実際の裁判と受刑者の厳しい様子を描いてイエスは説明され、そうして、実は神による裁きの重さと神との和解の緊急かつ絶対的必要性を強く説いておられるのです。

 26節「1コドラント」は当時の通貨で、1日の給料の64分の1だそうです。がこんな少額でも払い切るまで牢から出られないということで、イエスは神による最終的裁きが如何に重いかをお教えになっておられるのです。ですから、26節「まことに、あなたに言います」、直訳しますと「アーメン、私は言う」と大変厳かに語られます。

 イエスは22節で「火の燃えるゲヘナ(地獄)に投げ込まれ」ると言われます。私たちが誰かの存在を否定するぐらい激しく怒り、侮辱することは、既に心の中の殺人です。従って、神はこれを断罪される。同様に、誰かが私たちに強い反感を抱いているのを知りながら和解に努めないのは、その人に殺人罪を犯させることになり、それを放置することは神の前で大きな罪だということです。そして、25節「あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で」とあるその人に、イエスは実は神を重ねておられます。その通り、神は救いの神ですが、私たちの身勝手や頑なさ次第では、人生という道の途中でずっと私たちの罪を訴え続けられる告発者であり、裁判官でもあられるのです。そして私たちはいつ突然命を取られ、神の裁きの座に立つか分りません。ですから、神と和解することは、緊急かつ絶対的に必要なのです。

 一体、どうしてここまでイエスは言われるのでしょうか。先程も言いましたが、私たちが誰かの存在を否定するぐらい執拗に激しく怒り、侮辱しながら、また自分への人の恨みを知ってはいても、人と中々和解しようとしないことをご存じだからです。分っていても、それが出来ず、またしようとしない頑なな私たち罪人!それなら、私たちには神の裁きしかないのではないでしょうか。

 いいえ、こんなどうしようもない私たちの頑なな罪をよくご存じだからこそ、イエスは「私があなたの贖いとなり仲保者となるから、生きている今、すぐ私を通して父なる神と和解させて頂きなさい。罪を赦してもらいなさい」と25節で言われるのです。パウロも言います。Ⅱコリント5:20、21「神が私たちを通して勧めておられるのでしから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させて頂きなさい。神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」

 罪を犯しては悔い、悔いてはまた犯す情けない私たちです。でも、こうまでして私たちにお教え下さる主イエスに心から感謝し、イエスにより神との和解に何としても与らせて頂き、また人との和解にも是非努めたいと思います。御霊(みたま)が私たちを導き、とりわけ私たちの頑なさを打ち砕き、取り除き、心の底から清めて下さいますように!御霊は、私たちが願うなら喜んでそれをして下さる神であられます。

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