聖書の言葉 2:12 こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさい。2:13 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる方です。フィリピの信徒への手紙 2章12節~13節 メッセージ 【導入】 私は5月に安いジムに入会しました。これは、健康のためです。いつも定期受診しているクリニックの医師から、運動をするように勧められ、以前は、家の周りをウォーキングしていたのですが、夏の暑い時、冬の寒い時、夜の暗い時など、苦手な環境になると、途端にモチベーションは下がり、運動の機会がみるみる減っていくのでした。そこで、どんな環境であっても運動を継続できるようにと、家の周りをウォーキングするのではなく、ジムを選んだのです。ジムはエアコンが効いていて暑さ寒さの心配はなく、日が暮れて暗くなっても電気がついているジムの中なら、老眼が始まって暗がりが苦手になった私でも、問題なく運動ができるのです。 さて、私は、ジムに入会してから、仕事の合間を縫ってジムに通い、汗を流し、健康な肉体を維持できるように心がけていたある日、自分の時間の使い方にふと思いを寄せ、考えることになったのです。ジムに行くと、自分が目標とする時間をかけて運動をするわけですが、1日24時間のうち、最低30分は運動をすると目標を決めて取り組んでいます。この明確に決めたジムの時間と同等、いや、それ以上に、「私はどれだけの時間を主のために取り分けることができているのか?」と自問したわけです。1日=24時間の日ごと、1週間=7日の週ごと、1カ月=30日の月ごと、1年=365日の年ごとに振り返ってみましたが、主のために取り分けた時間は、決して長い時間ではありませんでした。 旧約、新約の時代に生きた人たちを思い返すと、いつも主を思い、主に祈り、賛美し、伝道し、あらゆる時間を主のために取り分けていたことが、聖書から教えられます。かつて私は、当時の人達には時間があったのだろうと思っていたことがありましたが、よくよく考えれば決してそうではないのだと気付きました。むしろ、現代の方が、時間があるのではないかとすら思うのです。聖書の時代の登場人物の生活を考えると、ナオミが落穂拾いを、ヤコブが家畜を飼育したように、食料を確保するためには多くの労を要しました。リベカが水を汲み家畜に水を飲ませたように、飲み水の確保は何よりも大切な仕事であり、時間と体力が必要でした。調理をする時には火を起こし、洗濯は非常に大変だったと思います。現代なら、スーパーへ買い物に行けば食材は手に入り、蛇口をひねれば水は出て、スイッチ一つでガスコンロに火が付き、電子レンジに食材を並べてメニューのボタンを押せば一品できます。食器洗いや洗濯や掃除は機械がしてくれる。カットされた食材とメニュー専用の調味料を混ぜて炒めたり煮れば一品が完成する。そして宅配サービスがあります。移動は車やバイクでドア・トゥー・ドアですから、徒歩や動物に乗るなどの昔の移動手段からすると、あっという間に目的地に到着できます。このような時間短縮が主流になっている現代ですから、時間を作ろうと思えば、昔よりも多くの時間を捻出できるのではないでしょうか。しかし、私もそうですが、時間がありそうでないのが実感するところだと思います。その原因は、便利になった一方で、昔よりも多くのタスクを抱え、忙しくなっているからなのかもしれません。 そのような中で、いかにして、主のために時間を取り分けられるのかを、皆さんと一緒に考えたいと思います。 【本題】 主のために時間を取り分けることはなぜ必要なのか。ウエストミンスター信仰告白の第21章6条には、「祈りも、宗教的礼拝の他のどの要素も、今や福音のもとにおいては、それがなされ、または向けられるどのような場所とも結合されず、またはそれによって一層よしとされることもない。かえって、すべての所で霊とまこととをもって、神を礼拝すべきである。すなわち個々の家庭で日ごとに、隠れた所で各人が自分で、そのようにし、公同集会では一層厳粛にすべきである。神がみ言葉または摂理によってそこに招かれる時に、不注意からまたは故意に、公同集会を軽視したり放棄したりしてはならない」とあります。私が注目したのは、「個々の家庭で日ごとに、隠れた所で各人が自分で」礼拝すること、主のために時間を取り分けることを勧めていることです。私たちが、家庭での礼拝、個人での礼拝の時間、言い換えると、主のために時間を取り分けるコツは何でしょう? 私は学生時代に、キリスト者学生会という超教派の集いに参加していました。そこで、様々な教派のクリスチャンと出会いました。様々なクリスチャンと交わりをする中で印象的だったのが、何をする時も祈って始め、祈って終わること、時には、悩みや相談を持ち掛けると、「一緒に祈ろう!」と、それが道の真ん中や賑やかなショッピングモールでも、人の邪魔にならない所を見つけ、その場で熱心に祈ってくれたことでした。この時には、「熱心なクリスチャンだな。教派が違うからかな?」と気にも留めていませんでした。しかし、後から振り返ると、一緒に祈って始まる交わりや祈ってもらった悩みに対して、心に平安があったことを思い出します。これが、世俗では味わえない、聖霊に満たされた感覚、まことの神様を中心にした交わりなのだと、はっきりと分かりました。私たちは、「今すぐ他教派のクリスチャンのようになろう!」というわけではありませんが、クリスチャンだという自覚を持ち、聖書で教える、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」(ローマ人への手紙12章2節)と、自分の行動、自分の信仰の変化を望まなくてはならないのだと思います。 冒頭のように、私は健康維持のために体を動かす習慣を作ろうと、行動を変化させましたが、それ以上に、主のために時間を取り分ける習慣を作るための信仰の変化、霊的成長に邁進する必要に促されたのです。この奨励の奉仕が決まって、本日までに、私が取り組んだことは、私の行動や発言や思考などの全てに神様の介在があるように、その介在を通して神様の御心を悟りながら行動できるように、祈りをもって始めることです。車に乗る時、仕事を始める時、職場のスタッフと話をする時、子どもと話をする時、妻と話をする時、メールの返信を打つ時、ジムに行く時、家事をする時、等々と、欲張りすぎかもしれませんが、私の全てに神様の介在を求めたのです。もちろん、大急ぎの時や慌ただしい時は忘れていましたが、少しずつ習慣化すると、学生時代に感じた、聖霊に満たされた感覚、まことの神様を中心にした歩みに導かれている感覚に満たされたのです。私が行なった一つの習慣と行動ですが、信仰の成長に合わせて更なる変化と霊的成長を、聖霊の神様の働きに期待し、祈りつつ歩みたいと思います。「こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる方です。」(ピリピ人への手紙2章12~13節) 今、伝道所委員の4名で、励まし合いながらR.B.カイパー著『聖書の教会観』を1章ずつ読み進めています。これは、神様の御心に沿った教会はどのような教会かを知り、伝道所委員としてどのような役割を果たすべきなのか、伝道所委員一人ひとりが知るためです。ただ、私は進捗が遅れていますが、信仰の兄弟姉妹の励ましによって、この伝道所委員の取り組みの輪の中に入れられ、主のために時間を取り分け、共に信仰の成長と霊的成長に与ろうとしています。一人で取り組めない場合であっても、信仰の兄弟姉妹と励まし合うことで、力が与えられます。 【結び】 私たちが、主のために時間を取り分けるコツは、①自分の行動、信仰の変化を望み、自身の習慣に変化を加えること。もちろん、その変化は、神様の御心を求める習慣として身に付けること、②兄弟姉妹と励まし合い、共に信仰の成長と霊的成長に預かるように取り組むことではないでしょうか。 関連する説教を探す 2025年の祈祷会 『フィリピの信徒への手紙』
【導入】
私は5月に安いジムに入会しました。これは、健康のためです。いつも定期受診しているクリニックの医師から、運動をするように勧められ、以前は、家の周りをウォーキングしていたのですが、夏の暑い時、冬の寒い時、夜の暗い時など、苦手な環境になると、途端にモチベーションは下がり、運動の機会がみるみる減っていくのでした。そこで、どんな環境であっても運動を継続できるようにと、家の周りをウォーキングするのではなく、ジムを選んだのです。ジムはエアコンが効いていて暑さ寒さの心配はなく、日が暮れて暗くなっても電気がついているジムの中なら、老眼が始まって暗がりが苦手になった私でも、問題なく運動ができるのです。
さて、私は、ジムに入会してから、仕事の合間を縫ってジムに通い、汗を流し、健康な肉体を維持できるように心がけていたある日、自分の時間の使い方にふと思いを寄せ、考えることになったのです。ジムに行くと、自分が目標とする時間をかけて運動をするわけですが、1日24時間のうち、最低30分は運動をすると目標を決めて取り組んでいます。この明確に決めたジムの時間と同等、いや、それ以上に、「私はどれだけの時間を主のために取り分けることができているのか?」と自問したわけです。1日=24時間の日ごと、1週間=7日の週ごと、1カ月=30日の月ごと、1年=365日の年ごとに振り返ってみましたが、主のために取り分けた時間は、決して長い時間ではありませんでした。
旧約、新約の時代に生きた人たちを思い返すと、いつも主を思い、主に祈り、賛美し、伝道し、あらゆる時間を主のために取り分けていたことが、聖書から教えられます。かつて私は、当時の人達には時間があったのだろうと思っていたことがありましたが、よくよく考えれば決してそうではないのだと気付きました。むしろ、現代の方が、時間があるのではないかとすら思うのです。聖書の時代の登場人物の生活を考えると、ナオミが落穂拾いを、ヤコブが家畜を飼育したように、食料を確保するためには多くの労を要しました。リベカが水を汲み家畜に水を飲ませたように、飲み水の確保は何よりも大切な仕事であり、時間と体力が必要でした。調理をする時には火を起こし、洗濯は非常に大変だったと思います。現代なら、スーパーへ買い物に行けば食材は手に入り、蛇口をひねれば水は出て、スイッチ一つでガスコンロに火が付き、電子レンジに食材を並べてメニューのボタンを押せば一品できます。食器洗いや洗濯や掃除は機械がしてくれる。カットされた食材とメニュー専用の調味料を混ぜて炒めたり煮れば一品が完成する。そして宅配サービスがあります。移動は車やバイクでドア・トゥー・ドアですから、徒歩や動物に乗るなどの昔の移動手段からすると、あっという間に目的地に到着できます。このような時間短縮が主流になっている現代ですから、時間を作ろうと思えば、昔よりも多くの時間を捻出できるのではないでしょうか。しかし、私もそうですが、時間がありそうでないのが実感するところだと思います。その原因は、便利になった一方で、昔よりも多くのタスクを抱え、忙しくなっているからなのかもしれません。
そのような中で、いかにして、主のために時間を取り分けられるのかを、皆さんと一緒に考えたいと思います。
【本題】
主のために時間を取り分けることはなぜ必要なのか。ウエストミンスター信仰告白の第21章6条には、「祈りも、宗教的礼拝の他のどの要素も、今や福音のもとにおいては、それがなされ、または向けられるどのような場所とも結合されず、またはそれによって一層よしとされることもない。かえって、すべての所で霊とまこととをもって、神を礼拝すべきである。すなわち個々の家庭で日ごとに、隠れた所で各人が自分で、そのようにし、公同集会では一層厳粛にすべきである。神がみ言葉または摂理によってそこに招かれる時に、不注意からまたは故意に、公同集会を軽視したり放棄したりしてはならない」とあります。私が注目したのは、「個々の家庭で日ごとに、隠れた所で各人が自分で」礼拝すること、主のために時間を取り分けることを勧めていることです。私たちが、家庭での礼拝、個人での礼拝の時間、言い換えると、主のために時間を取り分けるコツは何でしょう?
私は学生時代に、キリスト者学生会という超教派の集いに参加していました。そこで、様々な教派のクリスチャンと出会いました。様々なクリスチャンと交わりをする中で印象的だったのが、何をする時も祈って始め、祈って終わること、時には、悩みや相談を持ち掛けると、「一緒に祈ろう!」と、それが道の真ん中や賑やかなショッピングモールでも、人の邪魔にならない所を見つけ、その場で熱心に祈ってくれたことでした。この時には、「熱心なクリスチャンだな。教派が違うからかな?」と気にも留めていませんでした。しかし、後から振り返ると、一緒に祈って始まる交わりや祈ってもらった悩みに対して、心に平安があったことを思い出します。これが、世俗では味わえない、聖霊に満たされた感覚、まことの神様を中心にした交わりなのだと、はっきりと分かりました。私たちは、「今すぐ他教派のクリスチャンのようになろう!」というわけではありませんが、クリスチャンだという自覚を持ち、聖書で教える、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」(ローマ人への手紙12章2節)と、自分の行動、自分の信仰の変化を望まなくてはならないのだと思います。
冒頭のように、私は健康維持のために体を動かす習慣を作ろうと、行動を変化させましたが、それ以上に、主のために時間を取り分ける習慣を作るための信仰の変化、霊的成長に邁進する必要に促されたのです。この奨励の奉仕が決まって、本日までに、私が取り組んだことは、私の行動や発言や思考などの全てに神様の介在があるように、その介在を通して神様の御心を悟りながら行動できるように、祈りをもって始めることです。車に乗る時、仕事を始める時、職場のスタッフと話をする時、子どもと話をする時、妻と話をする時、メールの返信を打つ時、ジムに行く時、家事をする時、等々と、欲張りすぎかもしれませんが、私の全てに神様の介在を求めたのです。もちろん、大急ぎの時や慌ただしい時は忘れていましたが、少しずつ習慣化すると、学生時代に感じた、聖霊に満たされた感覚、まことの神様を中心にした歩みに導かれている感覚に満たされたのです。私が行なった一つの習慣と行動ですが、信仰の成長に合わせて更なる変化と霊的成長を、聖霊の神様の働きに期待し、祈りつつ歩みたいと思います。「こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる方です。」(ピリピ人への手紙2章12~13節)
今、伝道所委員の4名で、励まし合いながらR.B.カイパー著『聖書の教会観』を1章ずつ読み進めています。これは、神様の御心に沿った教会はどのような教会かを知り、伝道所委員としてどのような役割を果たすべきなのか、伝道所委員一人ひとりが知るためです。ただ、私は進捗が遅れていますが、信仰の兄弟姉妹の励ましによって、この伝道所委員の取り組みの輪の中に入れられ、主のために時間を取り分け、共に信仰の成長と霊的成長に与ろうとしています。一人で取り組めない場合であっても、信仰の兄弟姉妹と励まし合うことで、力が与えられます。
【結び】
私たちが、主のために時間を取り分けるコツは、①自分の行動、信仰の変化を望み、自身の習慣に変化を加えること。もちろん、その変化は、神様の御心を求める習慣として身に付けること、②兄弟姉妹と励まし合い、共に信仰の成長と霊的成長に預かるように取り組むことではないでしょうか。