2025年06月01日「キリストの教会とは」

問い合わせ

日本キリスト改革派 岡山西教会のホームページへ戻る

キリストの教会とは

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 16章17節~20節

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられる私の父です。
16:18 そこで、私もあなたに言います。あなたはペテロです。私はこの岩の上に、私の教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
16:19 私はあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
16:20 その時イエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることを誰にも言ってはならない、と命じられた。マタイによる福音書 16章17節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 前回も申しましたが、16:13~20はマタイ福音書のクライマックスだと、よく言われます。弟子たちを代表してペテロがイエスに、16節「あなたは生ける神の子キリストです」と、とても大切な信仰告白をし、また21節から分りますように、この後、イエスは十字架の苦難と死と復活に向って歩まれるからです。

 イエスは、弟子たちが正しく信仰告白できるところまで教育なさり、その彼らの信仰を踏まえて、今後は十字架と復活に向われ、人類の罪の償いをなし、父なる神の救いのご計画を完成されるのです。

 今日は17節以降へ進みます。

 イエスはペテロに言われました。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことを明らかにしたのは血肉ではなく、天におられる私の父です。」

 ペテロとは、イエスが付けられたあだ名であり、本名はシモンです。しかしイエスは「バルヨナ・シモン」、すなわち、「ヨナの子・シモン」と、敢えて父親の名前も加えて呼ばれ、信仰告白をすることの大きな意義と幸いを強調されます。

 実際、イエスに私たちが正しく信仰告白できることは何と幸いなことでしょうか。それは「血肉」、すなわち、生れながらの私たち自身から決して生れ出たものではなく、天の父なる神が私たちに働かれ、導いて下さったからに他なりません。ですから、私たちもイエスを「生ける神の子キリストだ」と告白できることに、天の父なる神の確かな救いの恵みと導きを改めてしっかり覚え、心から神に感謝し、神を賛美したいと思います。

 ところで、イエスはペテロの信仰告白に続けて、大変重要なことを語られます。何でしょうか。教会がどんなに大切かということです。イエスは言われました。18節「そこで私もあなたに言います。あなたはペテロです。私はこの岩の上に、私の教会を建てます。」

 ここでローマ・カトリック教会の主張を見ておきます。ローマ・カトリック教会は、ローマ教皇をペテロの後継者と考え、従って、イエスはローマ教皇に教会の最高権威を与えられたと主張して来ました。これは18節の「岩」をペテロ個人と解釈することに基づいています。

 確かに、ペテロという名は岩と関係があります。しかし、ペテロはギリシア語でペトゥロスと言い、岩のかけらや石を指します。しかし、「岩」はギリシア語でペトゥラと言い、岩盤とか大きな岩を指します。言葉は似ていますが、実際は大分違います。ですから、ローマ・カトリック教会の主張には無理があると言わざるを得ません。

 それと、ペテロはあとの23節で「下がれ、サタン。あなたは、私をつまずかせるものだ」とイエスにとても厳しく叱責されます。この点でも、ペテロ個人をイエスの言われる「岩」、大きな岩盤とするのは無理だと思われます。

 それでは、「岩」は何を指すのでしょうか。ペテロが弟子たちを代表して16節で述べました信仰告白と取るのが最も自然でしょう。前回申しましたように、置かれたその時々の状況でなされる信仰告白・信条が、教会にとってどんなに重要かが、今朝の聖書箇所からも良く分ると思います。

 ところで、今朝特に心に留めたいことは、イエスが18節「私はこの岩の上に、私の教会を建てます」と言われたそのキリストの教会の大切さです。

 「教会」という言葉は、マタイ福音書では、ここと18:17にだけ出て来ます。いずれも大変重要なことを主イエスが語られる箇所です。教会はギリシア語でエクレーシアと言い、元は「~から呼ばれた者たち」とか「集会」という意味であり、やがてそれは教会を表すものとして使われるようになりました。

 話を戻します。16:13~20はマタイ福音書のクライマックスだと言われる、と申しました。心に留めたいことは、まさにそういう非常に大事な所で、イエスが「教会」に言及しておられることです。つまり、それほど、イエスは教会の重要性を語っておられるのであり、キリスト教信仰にとって、教会は決定的に重要なものだということです。

 ひと口にキリスト教と言っても、色々なクリスチャンや教会、教派、教団が見られます。中には、教会を聖書に基づいて教理的、神学的にあまり考えず、単に礼拝のために集まる場所とかクリスチャンの集団位にしか考えない人たちも沢山います。

 今朝の週報の第四面の真中辺りにも書きましたが、聖書を教会で体系的に良く学ぶことや、教会の色々な奉仕に参加すること、そして神の霊的な恵みを分ち合い、仕え合うという教会での具体的な交わりを、自分の信仰、あるいは信仰生活の中心に置いていない人たちもいます。例えば、健康を害してもいませんのに、家の中や車の中で、インターネットを通して礼拝説教を聞き、讃美を歌うだけで良しとする人たちも今増えているといいます。要するに、教会の位置付けが低く、教会をさほど重要とは思っていないのです。

 しかし、神の御言葉・聖書は教会をどう教えているでしょうか。

 マタイ21:13でイエスはイザヤ56:7を引用して、「祈りの家」と呼んでおられます。使徒20:28は教会を「神がご自分の血をもって買い取られた」ものだとまで教えています。Ⅰコリント3:16、17は教会を「神の宮」、あるいは御霊の「宮」と呼び、Ⅰコリント12:27は教会を「キリストの体であって、一人一人はその部分」だと教えています。エペソ2:22は教会を「神の住まい」と述べ、Ⅰテモテ3:15は「神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会」だと教えています。そもそもパウロの手紙を初め、新約聖書の手紙の殆どは、色々な地域にあった教会に宛てて書かれたものです。教会が大切なのです。

 では、旧約時代はどうだったでしょうか。神の民とされた古代イスラエル民族の中には、神に背き、悪を行う人たちが一杯いました。王も預言者も祭司の中にも沢山いました。エゼキエル書などを読みますと、よく分ります。ですから、神はしばしばイスラエルを罰し、非常に厳しい試練も与えられました。

 しかし、主なる神を真(しん)に畏れ、崇め(あがめ)、主の戒めを忠実に守り、まだ儀式的でしたが神礼拝を心を尽して捧げ、隣人を愛し、隣人に良く仕え、神からの約束の救い主を仰ぎ、待ち望んでいた真(まこと)の信仰者からなる教会は存在していました。

 とにかく、イエスが今朝の御言葉で明確に示された教会こそ、歴史を通じて、神の救いの愛と恵みが何より注がれる私たちの信仰の拠点であり、やがて世の終りに主イエスが来たらせられる神の国のひな形なのです。そう言ってよければ、教会は天国の出張所なのです。

 ですから、イエスは教会に非常に大きな権能を与えられたのでした。イエスは言われます。18節「私は、この岩の上に私の教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」

 「よみ」とは死者の行く場所を指し、「門」はそこに人を閉じ込める力を象徴的に述べたものです。確かに、私たち罪人にとって、死の力ほど強力なものはありません。しかし、それすらも、ご自分の教会に打ち勝つことはできないと、主イエスは断言なさいます。主イエスが教会生活を通して私たち信仰者にお与え下さる罪の赦しと永遠の命は、死の力を遥かに凌駕する絶大な力を持っています。イエスは教会にそういう働き、機能を与えておられるのです。

 イエスはまた19節「天の御国(みくに)の鍵」を教会にお与えになり、こう言われます。19節「あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

「つなぐ」は禁じることを意味し、「解く」は許可することを意味します。つまり、教会には、人が天国に入ることを禁じ、あるいは許可することのできる、いわゆる「鍵の権能」が与えられているのです。何と厳粛な事実でしょうか。

 現実の教会には罪も弱さも欠けもあり、御言葉により絶えず改革され続けなくてはなりません。けれども、御言葉と聖霊の導きによく従い、正しい信仰告白に生きる時、教会はこれほどの権能を主イエスご自身から託されているのです。ですから、古代教会時代から言われて来ました「教会を母とするのでなければ、神を父とすることはできない」という言葉には、大切な真理の一端があると言えると思います。キリストの教会!本当に何と大切なものでしょうか!

 私たちは、決定的とも言える教会の重要性を今朝、改めて認識し、愛する主イエス・キリストの真実な教会を打ち建て、神の栄光を現し、一人でも多くの人の救いに、言い換えれば、人間の最高の幸せに、良く仕える教会でありたいと思います。

関連する説教を探す関連する説教を探す