人間の罪の性質
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 16章1節~4節
16:1 パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた。
16:2 イエスは彼らに答えられた。「夕方になると、あなた方は『夕焼けだから晴れる』と言い、
16:3 朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。
16:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。マタイによる福音書 16章1節~4節
普段、私たちは殆ど意識していませんが、人は皆、自分なりの世界観を持って過ごし、物事に対処し、歳を取って行きます。自分の持つ世界観により、私たちの人生と永遠の行き先は大きく変ります。
聖書は、神と世界と人間の三つを含めた世界観を教えます。これらの三つはどれも欠けてはならず、また一つ一つが正しいものであることが重要です。
では、その中の人間とはどういうものでしょうか。これにも色々な側面があり、一言で定義することはできません。しかし私たちは、今朝の聖書箇所から、神の御子イエスに対するパリサイ人やサドカイ人の姿勢や態度の中に、人間が共通に持つ罪の性質の中で、特に神に対するものを少し示されますので、それを確認し、どうあるべきかを学ぶことができればと思います。
さて、一つのことは、神また救い主イエス・キリストを否定する点で、人には共通の傾向というか性質のあることです。
1節「パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て」とあります。一緒にやって来たのですから、両者は仲が良さそうに見えます。しかし、実は当時のユダヤ教の中で両者はことごとく対立するグループでした。パリサイ人は平民の出身でしたが、サドカイ人は貴族の出身でした。パリサイ人は人間の死後の世界と死者の復活、また霊の存在を信じましたが、サドカイ人はそれらを全部否定し、自らを合理主義者と呼んで自慢したほどでした。
ずっとのちのことですが、イエス・キリストを人々に宣べ伝えたため、エルサレムでユダヤ人に捕えられた使徒パウロは、彼を裁こうとする最高法院の中にパリサイ人とサドカイ人がいるのを見て、自分は元はパリサイ人で、「死者の復活という望みのことで裁きを受けているのです」と叫びました。すると、パリサイ人とサドカイ人の間に論争が起り、最高法院が二つに割れたことを使徒の働き23:6~8は伝えています。それ位、対立していたのでした。
民族主義的なパリサイ人は外国の文化や学問を嫌い、ローマ帝国によるユダヤ統治に反発しました。一方、自らを進歩的だと誇ったサドカイ人は、ギリシアやローマの思想や文化とも妥協し、ローマ帝国とも仲良くしました。こうして両者は、右と左、保守と革新、水と油という感じでした。ところが、イエスに敵対し、イエスを試して陥れようとする悪いことでは、自分の信念や信条を曲げてでも簡単に協力できました。これは偽善ではないでしょうか。
人間のこういう調子のいい罪の性質を聖書は他にも伝えます。ローマ帝国が派遣した総督ピラトとユダヤの王ヘロデは、人間としてはどっちもどっちで敵対していましたが、ルカの福音書23:12が伝えますように、イエスが捕らえられ殺されることをきっかけに、急に仲良くなりました。実にいい加減なのです。
パリサイ人やサドカイ人は神の存在を信じていました。しかし、単に神存在を信じるだけなら、ヤコブの手紙2:19が言いますように、悪霊でさえ信じ、おののいているのです。
人間として本当に大切なことは、一切をご存じの生ける真(まこと)の神を恐れ、神の前に心底平伏し、神が御子イエスにより鮮やかに示された特に神の御心と聖い(きよい)意志に、きっぱりと誠実に従うことではないでしょうか。
二つ目に進みます。第一点と関係しますが、人間は福音を、また神の真理をいくら示されても、それを受け入れようとしない実に頑なな者だということ点です。
パリサイ人とサドカイ人は1節「天からの徴(しるし)を見せてほしい」とイエスに求めました。イエスが神の許(もと)から来た救い主だという決定的証拠を見せてほしい、というわけです。これに対して、イエスは2、3節で「夕方になると、あなた方は『夕焼けだから晴れる』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時の徴を見分けることはできないのですか」と反論されました。
彼らは知的に少しも低くなく、識別力がありました。ところが、今までイエスが神の真理を教え、尊い福音を何度も語り、また大勢の病人を癒し、何千人もの群衆にパンを与えた奇跡も知っていましたのに、彼らはなおもイエスを神が遣わされた救い主とは信じませんでした。もっとすごい天からの証拠を示せ、と言うのです。
問題は、神とイエス・キリストにあるのではありません。彼らが頑なだったことにあります。
そこでイエスは4節で「ヨナの徴」に言及されます。紀元前8世紀の預言者ヨナは、ある時、船から海に投げ込まれました。しかし、大きな魚に飲み込まれ、三日三晩、魚の腹の中にいて、何と奇跡的に助かりました。
それと同じように、イエスはやがて十字架で死なれた後、三日目に復活されることを、ここで預言されたのでした。しかし聖書が伝えていますように、それを見てもユダヤ人たちは信じませんでした。何を見、何を聞こうが、信じないものは信じない。人間の頑なな罪がここにあります。
実は1節の質問は既に12:38でもなされ、イエスは同じようにお答えになり、しかもその後、14章、15章が伝える通り、イエスは驚くべき御業(みわざ)を色々なさいました。けれども、16章のここで、彼らは全く同じことをイエスに求めました。「神が目の前で奇跡を起し、イエスがこの場で神の真理を語り、天からの徴を見せるなら、自分は信じる」ということなのでしょう。しかし、それは違います。何度同じことを見、何度同じ話を聞いても、心が根本的に頑ななままなら、人間は変らないのです。
「真理であり事実であるなら、自分の考えと生き方を変えて、私は従う」という本当の謙遜さと潔癖さ、真実な姿勢を持たない限り、人類の父祖アダムの堕落以来、人間の内にある罪の性質のために、人は神とキリストが分らず、受け入れません。霊的盲目とも呼ばれて来たこれは、人間が学問を積み、人生経験を重ねれば、変わるというものではありません。ここには人間の自尊心も重なっていて、実に厄介なものです。
問題は、神とキリストについての証拠や資料ではなく、人間の心にあります。これが、聖書が私たち人間を頑なな罪人だと言う理由です。聖書的に言うなら、人は罪の奴隷と言えます。罪に縛られているからです。ですから、人は実は自由ではなく、自分ではどうしようもなく頑なであり、そのままでは永遠の滅びでしかありません。何という不幸であり悲惨でしょうか。
そこで、二つのことを申し上げて、今朝の説教を終りたいと思います。
第一に、こういう罪の性質を心底悲しみ、けれども神に助けと救いを真剣に願い求め、特に私たちの心を幼子のように素直で従順なものに変えて下さる聖霊の支配と働きを、自分の上に、また自分の愛する人たちの上に与えられることを、主イエスを通して、心から神に祈り求めたいと思います。
第二に、自分でも意識的に神に心を開き、またイエスが繰り返しヨナの出来事に触れられましたが、特に歴史の真只中でなされたイエス・キリストの復活の事実に目を留め、そこに堅く立つことが大切です。そうでありませんと、16:4に「こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた」とありますように、イエスは私たちを残して去って行かれます。でも、そんな不幸を、私たちは絶対に自分で自分に招いてはなりません。
神は今も、聖書と聖霊と教会により、私たちに救いの手を差し伸べておられます。ですから、これを今日、私たちは決して払いのけてはならず、改めてしっかり、ハッキリ受け入れたいと思います。ヘブル人への手紙3:12、15は言います。そこを読んで今朝の説教を終ります。
「兄弟たち。あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。…『今日、もし御声(みこえ)を聞くなら、あなた方の心を頑なにしてはならない。神に逆らった時のように』…。」