2025年04月24日「主の祈りの学び25 第五祈願 2」

問い合わせ

日本キリスト改革派 岡山西教会のホームページへ戻る

主の祈りの学び25 第五祈願 2

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章9節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

6: 9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天のちちもあなた方を赦して下さいます。
6:15 しかし、人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の過ちをお赦しになりません。マタイによる福音書 6章9節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 今日も主の祈りを学びます。通算で25回目、第五祈願の2回目の学びとなります。

 第五祈願をもう一度読みます。12節「私たちの負い目をお赦し下さい。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します。」

 祈りの模範として主イエスが教えられたこの大切な祈りから、私たちは前回、イエスを救い主と信じ、受け入れ、寄り頼んでいるクリスチャンであっても、この世に生きている間は、自分の罪の赦しを絶えず神に真剣に祈り求めることの大切さを確認しました。

 今日は二つ目として、人を赦すことの大切さを学びます。

 イエスは、第五祈願の中で「私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」と祈るようにお教えになります。負い目とは罪のことです。誰かに負担をかけ、償わなければならないような罪という意味合いが強いですね。

 前回は詳しく説明しませんでしたが、これは金銭的、物質的な罪だけではありません。イエスはマタイ5:22で「兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院で裁かれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」とお教えになり、言葉の罪を鋭く指摘しておられます。身体的暴力は元よりひどい罪ですが、暴言をはいたり、口にすべきでないことを不用意に口にして人をつまずかせ、その人の名誉を傷つけるとか、よく知りもしないのに憶測で人を悪く言うことなどもそうです。また、無責任に何かの負担を人に押し付けるといったことも含まれるでしょう。念のために「負い目」という言葉が意味することを少し確認しました。

 話を戻します。主イエスは、私たちに対して罪を犯した人を赦すことの大切さを、私たちが色々な折に捧げる主の祈りを通して、繰り返しお教えになるのです。

 無論、これは、私たちが人の罪を赦すことを交換条件として、私たちも神に罪を赦して頂くというのではありません。罪の赦しと救いは、ただただイエス・キリストへの信仰によります。

 では、「私たちも、私たちに負い目のある人を赦す」ようにと、イエスがお教えになるのはどうしてでしょうか。

 一つには、私たちの身勝手を戒めるという点があります。自分は罪の赦しを頂いて平安に生き、天国へ入れられたい。しかし、自分への誰かの罪は絶対に赦さないというのであれば、それはあまりにも身勝手です。しかし、案外、私たちにはそういう所がないでしょうか。自分は赦されたい。だが人は赦さない。この身勝手を戒めるために「私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」と祈るように、イエスはお教えになります。クリスチャンは、神の一方的な憐れみにより罪を赦されたのですから、その神の愛と赦しに倣って(ならって)、今度は人を赦すことをイエスは願われるのです。

 これは、とかく自分には甘く、他人には厳しい身勝手な私たちにとって、非常に大事なことです。ですから、イエスはこのことをもう一度取り上げ、注意されます。6:14、15「もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなたを赦して下さいます。しかし、人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の過ちをお赦しになりません。」

 主は私たちの身勝手を戒め、人を赦す真実な信仰をお求めになります。人々のために十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい」(ルカ13:34)と祈られた主イエスのお姿を、またその主イエスを見上げ、殺される直前に「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と叫んだステパノ(使徒の働き7:60)を覚えたいと思います。

 もう一つは、人を赦すことにより、私たちが神による罪の赦しと救いの愛を一層確信させられ、自分を変えられるためです。

 すごく腹が立ち、赦せない人が私たちにいたとして、その人への怒りや憎しみを抱き続ける時、私たちは幸せでしょうか。いつまでも心に苦いものがあり、過去を引き摺っていないでしょうか。普段は忘れていても、その人を思い出すと急に苦々(にがにが)しい思いになり、私たちは過去に引き戻され、その人にまた支配されます。1981年、広島を訪れた当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、「赦しなさい。赦さないと、あなたはずっと相手の支配下にあります」と述べました。この通りだと思います。

 自分もただ主イエス・キリストの十字架の故に罪赦されたことを思って人を赦す時、何と軽やかな気持に変えられるでしょう!自分のような者が人を赦せた!あの人とのイヤな過去を終らせることができた!それを知った時の軽やかさ、解放感は例えようがありません。

 そして、自分のような者でも赦せたのですから、ましてや、愛において無限・永遠・不変の神は、どれ程、不信仰で罪深いこの私にも赦しに満ちたお方でしょう!そのことを一層確信でき、信仰を大いに励まされます。

 何度も罪を犯しては悔い、悔いてはまた犯す情ない私たちですが、希望をもって自分の罪の赦しを願い、神に赦される幸せをますます噛みしめることができます。主は私たちをそういう幸せに与らせたいと願っておられるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す