2025年04月17日「あなたは今日、私と共にパラダイスに」
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あなたは今日、私と共にパラダイスに
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 23章39節~43節
聖書の言葉
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「お前はキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
23:40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「お前は神を恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は悪いことを何もしていない。」
23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られる時には、私を思い出して下さい。」
23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、私と共にパラダイスにいます。」ルカによる福音書 23章39節~43節
メッセージ
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今日のこの祈祷会は受難週祈祷会ですので、十字架上の主イエスの七つの言葉の二つ目に注目したいと思います。一緒に十字架につけられた二人の犯罪人の内の一人にイエスは言われました。34節「まことに、あなたに言います。あなたは今日、私と共にパラダイスにいます。」
マルコ15:27によりますと、彼らは強盗であり、相当悪かったようですが、一方はイエスを信じ、他方は死を前にしたこんな時でもイエスを39節のように罵りました。スイスの精神科医・心理学者ユングは「人は生きてきたように死んでいく」と言いました。この人は今までも人を罵っては憂さ晴らしをし、自分をごまかして生きてきたのでしょう。これは彼の頑なな生き方の積み重ねであり、自分で自分をこうしてしまったのです。何と愚かで罪深いことでしょう。
私たちは急には変れません。今日という日の積み重ねが重要です。ヘブル3:15は詩篇95を引用してこう言います。「今日、もし御声(みこえ)を聞くなら、あなた方の心を頑なにしてはならない。神に逆らった時のように。」
では、もう一人はどうだったでしょうか。40節が伝えますように、彼は先程の男をたしなめ、自分の罪を認め、十字架刑を当然のこととして受け入れました。自分の罪と惨めさを素直に認める謙り(へりくだり)が大切であり、そこから天の御国、すなわち、神の恵みのご支配は私たちに臨みます。イエスは言われます。マタイ5:3「心の貧しい(=神の前で真に謙った)者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
素直に自分の罪を認めた彼は、イエスについても正しい認識を持ちました。彼は41節「この方は、悪いことを何もしていない」と言い、42節「イエス様、あなたが御国に入られる時には、私を思い出して下さい」と言いました。
自分の罪と惨めさが本当に分かる時、私たちは神が分かり、イエスを救い主として心から信じられるようになります。宗教改革者カルヴァンが『キリスト教綱要』第Ⅰ篇第1章で言いますように、私たち人間の惨めさについての認識と神についての認識は繋がっているのです。
ところで、この人はどうしてイエスが全く正しい方であり救い主だと分かったのでしょうか。マタイ27:44によりますと、最初は彼もイエスを罵っていました。しかし、途中から変りました。どうしてでしょうか。
私たち人間の救いは、無論、聖霊によります。しかし、それは究極的な理由であり、人の心には、その都度、何かが理由で変化が起ります。彼はどうだったのでしょうか。
彼は以前、どこかでイエスを見、イエスが救い主だという噂を聞いていたかも知れません。しかし決定的に分ったのは、十字架上のイエスのお姿に触れたからではないかと思われます。イエスは、34節「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです」と、ご自分を殺す者たちのために真先に祈られました。ひどい苦痛の襲う十字架上で二人はイエスを罵りましたが、イエスはⅠペテロ2:23が言いますように「罵られても、罵り返さず」、何とご自分を十字架につけた人々のために祈られたのでした。彼はこういうイエスのお姿に触れ、救い主だと信じたのでしょう。世の中には、不敵にも笑って堂々と死ぬ人も時にはいます。しかしイエスは、どこまでも人の赦しを祈り願われました。しかも、ご自分を殺す者たちのために真先に祈られたのです。彼はこのイエスを知り、イエスが神からの救い主・キリストであることを、心の底から信じたのでしょう。
人生最期のこんな絶望的な時に、救い主を知り、信じ、依り頼むことのできた彼は、肉体的には最悪でしたが、魂にはどんなに大きな平安、また安心を得たことでしょうか。
死を前にする時、今まで自分を正当化してきたどんな理屈も弁解も私たちを支えません。ホスピスでは、「人は裸の自分にされる」とよく言われます。今まで自分を支えていた肩書や名声、実績、誇り、自己評価も、全く意味をなしません。私たちは全く何もないありのままの自分で死と向き合わなければなりません。しかし、そんな私たちをも主は尚も憐れんで下さり、ただご自分を信じ、受け入れ、依り頼む者を、本当に永遠の救いに入れて下さるのです。
犯罪人の一人が死の直前に救われたことは、何と大きな励ましでしょうか。たとえ死の数分前、いいえ、数秒前でも悔い改め、主イエスに憐れみを請い願うなら、イエスは43節「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」と言って下さいます。
エゼキエル18:23で神は言われます。「私は悪しき者の死を喜ぶだろうか。……彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。」私たちが如何に罪深くても、神は私たちが永遠に滅ぶことではなく、救われることがお喜びなのです。ヨハネ3:16は言います。「神は、実に、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」
主に感謝し、特に人を赦すことの尊さを再び心に深く刻みたいと思います。