2025年04月13日「十字架上のイエスの叫び」

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十字架上のイエスの叫び

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マルコによる福音書 15章33節~37節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:33 さて、昼の十二時になった時、闇が全地を覆い、午後三時まで続いた。
15:34 そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」
15:36 すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声を上げて、息を引き取られた。マルコによる福音書 15章33節~37節

原稿のアイコンメッセージ

 受難週礼拝の今朝は、十字架上のイエスの叫びに注目致します。

 33、34節をもう一度読みます。「さて、12時になった時、闇が全地を覆い、午後3時まで続いた。そして3時に、Jは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』訳すと『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』という意味である。」

 四つの福音書は、十字架上のイエスの言葉を七つ伝え、この叫びは四番目です。従って、丁度、真ん中に当り、苦しみの絶頂の時のものでした。

 マタイ福音書27:46はこの叫びを「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」とヘブル語で伝え、マルコ福音書は当時のユダヤの言葉、アラム語で伝えます。イエスはアラム語を普段話されましたから、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたことでしょう。いずれにしても、これは何と悲痛な叫びでしょうか。

 キリスト教に批判的な人たちは、「何とぶざまなイエス・キリストか。堂々と死ねないのか」とあざ笑います。しかし、聖書はそのままを伝えます。ここに大切な意味があるからです。では、それは何でしょう。今朝は二つほど、それを見たいと思います。

 一つは、私たちがそのままなら死後必ず受けることになる神の裁きを、イエスが私たちに代って全て引き受けられたのであり、それほど、イエスは私たちを愛して下さっているということです。

 自己中心な私たち罪人は、死後、必ず神の裁きを受け、この世で犯した全ての罪を永遠に償い続けることになります。しかも、私たちには自分で自分の罪に打ち勝つ力はありません。パウロでさえ、ローマ7:24で「私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか」と呻きました。

 こんな私たちは、一体、どうすれば罪を赦され、永遠に救われるのでしょうか。私たちは絶望的ではないでしょうか。いいえ、ここにイエス・キリストがおられます!自分で自分を救うことなど到底できない惨めな私たちのために、罪も汚れも一切知らない神の御子が、十字架で私たちに代って神の裁きを全て受けて下さったのでした!

 イエスは9時頃十字架につけられ、33節「12時になった時、闇が全地を覆い、午後3時まで続いた。」つまり、暗闇が3時間も全地を覆いました。これは異常です。一体これは何なのでしょうか。

 旧約聖書の出エジプト10:21以降によりますと、昔、イスラエルがエジプトから救われた時、頑ななエジプトを罰するために神は暗闇をエジプトに送られました。また神は終りの時、アモス8:9で「真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする」と言われました。つまり、闇は人間の罪に対する神の怒りを表わすのです。

 ということは、全人類の罪に対する神の恐るべき怒りを、罪のない神の御子イエスが私たちに代って、十字架でそっくり全部引き受けて下さったのです。ですから、Ⅱコリント5:21は「神は、罪を知らない方を、私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」と言い、ガラテヤ3:13は「キリストは、ご自分が私たちのために呪われた者となることで、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました」と言うのです。

 イエスは、私たちの身代りとなって神の怒りと呪いを自らお受けになり、私たちに代って神に見捨てられるという最悪のことを引き受けられました!それが「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びなのです。

 私たちは神に裁かれ見捨てられても自業自得です。しかし、イエス・キリストには全く罪がありません。父なる神に愛され、ご自分も御父を愛され、天地創造の前から御父とずっと素晴らしい交わりを楽しまれ、ご一緒でした。しかし、そういうお方が神の怒りと呪いを受け、それも全人類に臨むべきものが一挙に臨み、それを一身に受け、神に見捨てられる!想像を絶する苦しみと絶望でした。

 イエスは、父なる神をいつも親しく父と呼ばれましたが、この時は「神」と呼ばれました。主イエスはそこまで私たち人間と一つになって下さったのです!何という主の愛でしょうか!

 イエスの叫びには、もう一つ、大切な意味があります。それはイエスが、私たちのために、どこまでも父なる神を信頼されたことです。

 自分が悪くても私たちは、それを誰かから指摘されたり追及されますと、言い返すとか、それどころか、神に対してさえ文句を言い、暴言を吐きかねません。しかし、主イエスはどうでしょうか。私たちの罪を背負い、神に見捨てられるという全く絶望的で最悪の時でさえ、「わが神、わが神」と言われました。つまり、私たち人間の側にあくまでもご自分の身を置き、しかも父なる神への信頼を失われません!父なる神への何という信頼でしょう。

 実は、神へのこの信頼は、私たちのためのものでもありました。十字架の最も苦しい時でさえ、主は私たちに代り、なかなか神を信頼し尽せない弱い私たちのために父なる神に信頼し尽されたのです。ですから、このような御子イエスを心から自分の救い主と信じ、受け入れ、寄り頼む者をも、神は本当に受け入れて下さるのです。

 それと、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びにも深い意味がありました。これは、やがて来られる救い主の苦難と関りのあります旧約聖書・詩篇22:1の「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と同じです。かつて詩篇22の作者は、彼を滅ぼそうとする人たちに囲まれながら、神にこう叫びました。

 実は、イエスの叫びを伝えるマルコ15:34のアラム語もマタイ27:46のヘブル語も、詩篇22:1のヘブル語とは少し違います。ですから、イエスは詩篇22を直接引用して叫ばれたのではありませんでした。とはいえ、詩篇22をイエスが意識され、それにご自分を重ねられたことは明らかでしょう。

 では、何故イエスは詩篇22にご自分を重ねられたのでしょうか。実はこの詩篇の1節は絶望的な叫びですが、22篇の後半には、詩篇作者が神への信頼により、ついに苦難に打ち勝ち、神に感謝を述べ、神が弱い者を必ず助けて下さるという力強い信仰の告白が続きます。そういう詩篇にイエスはご自分を重ねられたのでした。

 ということは、イエスは「どうして私をお見捨てになったのですか」と絶望的に叫びつつも、「わが神、わが神」と言ってあくまで神を信頼されるご自分が、やがて神により必ず死と滅びに勝利することを告白されたのです。従って、その主イエスを心から信じる者も、必ず主と同じように死と滅びに勝利するということです!事実、イエスは十字架の死の三日後、お約束通り、復活されました。何というイエスの愛であり、神の恵みでしょうか。

 私たちには、この世で必ず辛いことがあります。この世は罪に満ち、私たちにも罪と弱さがあるからですが、その最も辛いものの一つは孤独でしょう。誰かがちょっと声をかけ、あるいは一緒にいてさえくれたなら、自死しないで済んだ人はどんなに多いでしょうか。体の辛さには耐えられても、全く独りぼっちで誰も自分を心にかけてくれず、自分は皆に見捨てられたという孤独感は、どんなに辛いでしょう。

 しかし私たちにとって最も惨めな孤独は、私たちを造られた神に私たちが見捨てられ、神の前から永遠に退けられるという罪のもたらす孤独です。このことを一度真剣に考えてみると良いでしょう。ガラテヤ6:7は言います。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。」

神は私たちの一切合切をご存じです。私たちが忘れてしまっている恥ずかしい罪、人に決して知られたくない罪も、ことごとくご存じです。ですから、神を侮っていますと、死後、神の裁きの座に立つ時、どんなに恐ろしく悲惨なことになることでしょう。

 しかし、こんな私たちが自分の不信仰と罪を心底悲しみ、「主よ、私を憐れみ、どうか見捨てないで下さい」と泣いて主イエスにすがるなら、神は断じて私たちをお見捨てになりません。御子イエスが私たちに代って十字架の苦しみと死を通して神に見捨てられ、しかも私たちに代って私たちのために、とことん神を信頼されたからです。

 ですから、このイエスを心から信じ、受け入れ、寄り頼む者は、最後の時、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ぶことは、もうありません。イエスの十字架の叫びは、これを私たちに保証し、約束しています!

 そして真(まこと)の信仰者は、パウロと共に次のように言うことができる恵みに入れられています。ローマ8:38、39「私はこう確信しています。死も、命も、御使いたとも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にあるものも、深い所にあるものも、その他のどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離す事はできません。」

 また、いつ、どこで、どのような死を迎えても、詩篇23:4「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが共におられますから」とイエス・キリストに告白することを許されるでしょう。

 今日から始まります受難週の一日一日、私たちのために、私たちに代って、苦しみも絶望も全て引き受け、しかも私たちのためにあくまで天の父なる神を信頼された主イエスの計り知れない愛を覚えて過ごしたいと思います。

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