2025年04月10日「主の祈りの学び24 第五祈願 1」
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主の祈りの学び24 第五祈願 1
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 6章9節~15節
聖書の言葉
6: 9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天のちちもあなた方を赦して下さいます。
6:15 しかし、人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の過ちをお赦しになりません。マタイによる福音書 6章9節~15節
メッセージ
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今日から第五の祈願、「私たちの負い目をお赦し下さい。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」(マタイ福音書6:12。文語訳「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え」)の学びに進みます。
前半の第一から第三祈願までは神に関する祈りですが、後半の第四から第六祈願までは私たち人間に関する祈りです。人間に関する祈りの中で、イエスが最初に教えられた第四祈願は、私たちの命、あるいは生存に関わる祈りです。大切な私たちの命、生存ですが、人間の罪と堕落の故に、本当は常に危険に晒されています。ですから、イエスは私たちに第四の祈願をお教えになるのです。
では、その次にイエスがお教え下さる五番目の祈願は何でしょうか。今度は私たちの大切な魂を最も脅かす「罪」に関わる非常に重要な祈りです。12節「私たちの負い目をお赦し下さい。私たちも、私たちに負い目のある人を赦します。」
「負い目」と訳されているギリシア語・オフェイレーマは負債や借金を意味しますが、罪も意味します。罪を表すものとして新約聖書全体で一番よく使われるギリシア語・ハマルティアは的外れというのが元の意味ですが、ここでは負債や借金を意味する方の言葉が使われています。「負い目」と訳されていますように、罪は罪でも償わなければならないという意味合いが強いですね。この点を私たちは覚えていたいと思います。
さて、第五祈願から教えられることは何でしょうか。いくつもありますが、一つのことは、自分の罪の赦しを絶えず真剣に神に祈り求めることの大切さです。
クリスチャンは、十字架でご自分の命をもって私たちの罪を全部償って下さいました神の御子イエスを、自分の救い主と信じています。そしてそのイエスへの信仰の故に罪を赦され、その意味では救われていると言えます。ところが、イエスは第五祈願において、私たちに尚も罪の赦しを祈り願うことをお教えになります。これはどういうことでしょうか。
全く罪がなく、神の戒め・律法を完璧に守られた神の独り子(ひとりご)イエスが命を捧げられたのですから、その救いの効力は絶大です。従って、イエスを心から自分の救い主と信じるなら、確かに人は罪を全て赦され、永遠の救いに与(あずか)ります。しかし厳密には、これは救いの約束に与ったのであり、救いの完成は天国においてなのです。
地上にあっては腐敗した罪の性質が残っているため、私たちは思いと言葉と行いにおいて繰り返し罪を犯します。ですから、私たちは今天におられる主イエスにこう祈らざるを得ません。「主よ、あなただけが私の希望です。何度も罪を犯す惨めな私を憐れみ、私の罪をお赦し下さい。」実はそう祈る中で、私たちは自分が永遠の救いの約束に与っていたことを繰り返し確認させられ、喜んで御言葉に従い、義に生きる者へと聖霊により清められていくのです。
「主を信じたあの時、私はもう救われた」と断言するクリスチャンもいます。しかし厳密には、それは救いの約束に与ったのであり、まだ罪から完全に解放されているのではありません。そこを誤解してはなりません。正しく救いの教理を知ることが大切です。
繰り返します。クリスチャンは主イエス・キリストへの信仰により、救いの約束を頂き、神との恵みの契約に入れられています。しかし、残る罪の性質のために、地上ではまだ何度も罪を犯します。むしろ信仰が成長するにつれ、私たちは自分の罪に一層鋭く気付くようになります。以前には余り感じなかった自分の罪が分るようになり、ルカ18:9以降が伝える取税人のように、13節、胸を叩きながら「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と祈らずにおられなくなります。パウロは自分が完全でないことがよく分っていました。ですから、鋭くなった罪意識の故に、彼はローマ7:18、24で、私には「良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できない…。私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか」と嘆いたのでした。
しかし、だからこそ、真(まこと)のクリスチャンはますます自分と戦い、自我に死に、絶えず私たちを父なる神に執り成して下さるイエス・キリストにのみ依り頼む者となります。神はそういう砕かれた魂を喜ばれます。詩篇51:17は言います。「神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ、あなたはそれを蔑(さげす)まれません。」
自分自身の思いと言葉と行いにおける罪と正直に真剣に向き合い、罪を悲しみ、憎み、御子イエスを通して罪の赦しを真剣に求める者を、神は決して拒まれません。必ず赦し、愛するご自分の子として一層励まし、慰め、御子イエスに似る者へと聖霊によって人格的に清め、成長させられます。そうして、やがて救いの約束が天の御国(みくに)で実現します。
自分の罪に無自覚でなく、絶えず悔い改め、赦しを繰り返し祈り願う心の砕かれた誠実な信仰者でありたいと思います。