2020年09月06日「キリストに倣(なら)う-謙りと従順-」

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キリストに倣(なら)う-謙りと従順-

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 2章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 あなた方は同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
2:4 それぞれ、自分のことだけではなく、ほかの人のことも顧みなさい。
2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなた方の間でも抱きなさい。
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自分を低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
フィリピの信徒への手紙 2章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 9月最初の今朝の礼拝は、振起礼拝として持ちます。夏の間、体の弱さに伴い、弱り勝ちだった私たちの信仰が整えられ、改めてこれからの日々を少しでも神に喜ばれるように過ごしたいと思います。

 そこで今朝は、クリスチャンの基本的あり方の一つとして、特に「キリストに倣(なら)う」ということに注目します。

 先程、お読みしたすぐあとの2:12は、「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」と言います。念のために確認しますが、私たち罪人は、自分の力で救いを獲得することは決して出来ません。そうではなく、十字架でご自分の命を捧げ、復活された神の御子イエス・キリストを救い主としてただただ心から信じ、受け入れ、依り頼むことで、神の子とされ、永遠の救いに与(あずか)れます。キリスト信仰により、私たちは罪を全て赦され、神に義と認められます。いわゆる信仰義認の恵みですね。私たちは、いわばキリストの真白な義の衣を着せて頂き、罪のない義人として神の前に恐れなく立つことを許されるのです。

 但し、実際には私たちは罪の性質をまだいっぱい残しています。ですから、神は次に私たちが神の子として実質的にも清くされ、人格的完成に至ることを期待しておられます。12節の言う救いの達成とは、既に救いの約束に与っているクリスチャンが、実質的にも清くされ、つまり聖化され、人格的完成を目指すことを意味します。

 では、どういう人格をクリスチャンは目指すのでしょうか。どんな人格が自分の理想なのかで、人は夫々随分違って来ます。この点で聖書はハッキリしています。イエス・キリストを模範とし、キリストに倣うのです。今朝はこれを確認します。

 キリスト信仰により罪と永遠の死からの救いを約束されている私たちは、目標とする人格を持っているでしょうか。これはとても大切な点です。そして、聖書の教えるそれは、単に心が広い、精神的に安定している、或いは強い、優しいなどではありません。聖書は、私たちのために人となられた神の御子イエス・キリストを指し示し、私たちがキリストを仰ぎ、キリストに倣い、キリストご自身に似ていくことを、何より教えます。

 確かに使徒パウロは、ピリピ3:17で「兄弟たち、<私に>倣う者となって下さい。また、あなた方と同じように私たちを手本として歩んでいる<人たち>に、目を留めて下さい」と言います。しかし、その彼はイエス・キリストに倣っていました。Ⅰコリント11:1で彼は言います。「私が<キリストに倣う>者であるように、あなた方も私に倣う者でありなさい。」結局、キリストに倣うことこそが、クリスチャンの目標なのです。神の大きな愛により、私たちは光栄にもイエス・キリストに倣って生きるように招かれているのです。

 では、イエス・キリストのどういう点に倣うのでしょうか。

 ルカ9:23でイエスは「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、私に従って来なさい」と教えられます。「十字架を背負う」とは、苦しみや悲しみを背負うことではありません。その前に「自分を捨て」とありますように、古い自我に死ぬことを意味します。またⅠペテロ2:21は「キリストも、あなた方のために苦しみを受け、その足跡(あしあと)に従うようにと、あなた方に模範を残された」と言い、キリストの柔和さ、忍耐、父なる神への信頼などを教えます。Ⅱテモテ2:8は「イエス・キリストのことを心に留めていなさい」と言い、特に死に打ち勝ち、復活されたキリストの力と真実に注目させます。このように、聖書全体からは、キリストを豊かに示されます。

 しかし、今朝はピリピ2章を見ます。パウロは1~4節で色々述べ、5節で特にキリストに倣うことを教え、「キリスト・イエスの内にあるこの思いを、あなた方の間でも抱きなさい」と言い、そのキリストを6節以降で記します。

 では、キリストのどういう点に倣うのでしょうか。二つあります。

 一つは、謙(へりくだ)りです。6節「キリストは、神の御姿(みすがた)であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして」と言います。

 キリストは元々、父なる神と共に栄光に包まれ、被造物である人間とは隔絶された永遠の神です。人間は、イエス・キリストの前に全く塵芥(ちりあくた)に等しい。ところが、何とそのキリストが、私たちを罪から救うために6節「神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられ…人としての姿をもって現れ」られたのでした。

 実際、イエス・キリストは何と低い姿で生れられたでしょうか。生れて初めて寝かされた所は、汚い飼い葉桶の中でした。イエスは神の独り子ですのに、黙々と人間の両親に仕えられました。イエスはユダヤやガリラヤの町々村々を足で歩き、繰り返し御国(みくに)の福音を群衆に語り、余りにも疲れて舟の上で眠り、また喉が渇き、空腹になられました。

 神の御子ですのに、イエスは一体何故はそこまで低く歩まれたのでしょうか。人間と同じようになり、弱い私たちを根底から理解し、完全に救うためです。イエスはそこまで御自分を低くされ、私たち罪人に仕えて下さったのです。それなら、どうして私たちは自分をさも偉い者であるかのように生きるのでしょうか。何故自分を低くしないでおれるでしょうか。

 イエスの謙りに倣い、むしろ、神から頂いている良いものを互いに認め合い、是非、仕え合う者でありたいと思うのです。Ⅱコリント8:9は言います。「主は富んでおられたのに、あなた方のために貧しくなられました。それは、あなた方が、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」私たちを救い、神の前で愛や喜びや感謝、真実に富ませるために、主は低く貧しくなられ、しもべとなって私たちに仕えて下さいました。何という主の謙りでしょう。

 歳を重ねるにつれ、特にクリスチャンとしての歳月を重ねるにつれ、ますます謙虚な者とされ、また神と人に喜んで仕えることを通してキリストの謙りに倣う者でありたいと思います。

 二つ目は従順です。キリストは、ピリピ2:8「死にまで」、それも「十字架の死にまで従われ」ました。

 米国のウェストミンスター神学校の元組織神学教授、J.マレー博士は「キリストの特徴を一言で言えば、従順にある」と言いました。その通り、父なる神に対するイエス・キリストの従順には、驚くべきものがあります。イエスは、父なる神が立てられた人類の救いの計画に「十字架の死にまで」従順であられ、一つの文句もおっしゃいませんでした。父の御心こそが何にも勝り最善であることをご存じですし、イエスは御自分を信じる信仰者たちを真に愛されたからです。ヨハネ福音書10:11で「良い牧者は羊たちのために命を捨てます」と言われた通り、イエスは父なる神と私たちへの愛の故に、十字架の死に至るまで、ご自分の使命にとことん忠実であられ、右にも左にも曲がらず、一切呟かず、従順であられました。

 神への従順は、真(まこと)の信仰者の最大の特徴の一つと言えます。無論、誰も完全ではありませんが、旧約時代の信仰者アブラハム、モーセ、ヨシュア、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、新約時代の信仰者ペテロ、ヨハネ、パウロなど、聖書の伝える彼らには、神の御心と神から賜った自分の使命に従順であった、という共通点があります。従順は真の信仰者の最も顕著な特徴の一つなのです。

 ところで、謙りと従順は大切だけれど、厳しいこの世の生活では、損をするだけではない、かという声もあるかも知れません。どうなのでしょう。

 これに対し、聖書はピリピ2:9以降で、神がキリストを高く上げ、如何に豊かに報いて下さったかを示します。ということは、キリストに倣う者にも、神は同じことをして下さるのです。

 なるほど、私たちが主イエス・キリストに倣って、謙遜で従順であることは、この世の人から見れば、愚かでナンセンスかも知れませんね。でも、神は真実です。

 第一に、そういう人には、生ける真の神、創り主にして絶対者なる神の御心に生きているということから来る、何ものにも替えがたい深い良心の平安があります。

 第二に、神の御前で本当に謙遜な人は、試練にも苦難にも実は強いのです。宗教改革者のJ.カルヴァンは、こういう主旨のことを言っています。「倒れている人は、それ以上倒れることがない。」

 第三に、キリストに倣って謙遜で従順な人には、神は御子イエスにされたのと同じように、世の終りに必ず報いて下さいます。つまり、イエス・キリストご自身に似る者とされるという最高の幸せに与らせ、その上、永遠の報いを豊かに用意しておられます。多くの失敗をし、しばしば自分が情けなくて涙を流すことも多く、でも、一生懸命イエス・キリストに倣って生きてきた信仰者は、その時、このように言うでしょう。「主よ、あなたはどうして私にこんなに良くして下さるのですか。私はあなたの一方的な憐れみにより救われ、神の子供とされた者として、当然のことをしたに過ぎません。」けれども、主イエスは満面の笑みを浮かべてこう言われるでしょう。「さあ、私の父に祝福された人たち、世界の基が据えられた時から、あなた方のために備えられていた御国を受け継ぎなさい。」(マタイ25:34)

 聖書に書かれているにも関わらず、私たちはこれまで正直なところ、自分の目指す人格など、余り考えなかったかも知れません。その点は神に赦して頂き、でも改めてイエス・キリストに倣うことを明確にし、慈愛に満ちた神の期待と励ましに応えたいと思います。

 どうか、主イエス・キリストが私たち一同を日々励まし、地上の人生の最後の時まで、私たちの手を固く握りしめ、一歩一歩ご一緒に歩んで下さいますように! アーメン

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