2020年08月30日「怒り・侮辱の罪とその克服」

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怒り・侮辱の罪とその克服

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章21節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
5:23 ですから、祭壇の上に供え物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、
5:24 ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。
5:25 あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。
5:26 まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。
マタイによる福音書 5章21節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイ5:17~20で、イエスは、ご自分が旧約聖書にある神の律法を廃止するために来たのではなく、私たちクリスチャンが律法を尊び、義、すなわち良い業(わざ)に生きる者となるために来たのだ、と言われました。今日、見ようとしています21節以降は、その続きです。

 イエスは十戒のまず第6戒を取り上げ、こう言われます。21節「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者は裁きを受けなければならない』と言われていたのを、あなた方は聞いています。」

 「殺してはならない」は出エジプト記20:13と申命記5:17にある十戒の第6戒の言葉そのものです。「人を殺す者は裁きを受けなければならない」は、この言葉のままでは旧約聖書にありませんが、旧約聖書全体からこう言われてきたのでしょう。とにかく、「殺してはならない」の本当の意味をイエスは説き明かされます。

 第一にイエスが取り上げられるのは、人への怒りです。22節「しかし、私はあなた方に言います。兄弟に対して怒る者は、誰でも裁きを受けなければなりません。」

 怒りを表わすギリシア語には、パッと燃え上ってすぐ収まるものと、長く根に持つものの2種類があり、ここはあとの方です。

 人への怒りが長く続くと、どうなるでしょうか。段々その人の様々な点にまで腹が立ち、赦せなくなり、ついには「あんな人間はいなくなればいい」とまで思い、その人の存在を否定し、心で消してしまう!心をご覧になる神の目には、これは殺人と同じです。ですから、イエスは22節「誰でも裁きを受けなければ」ならない、つまり、神に裁かれると言い、怒りの持つ恐ろしさを指摘されるのです。

 人は皆、神の形に造られました。その神の形を、私たち人間が僭越にも心や言葉で破壊して良いでしょうか。これは恐ろしい罪なのです。

 怒りが如何に恐ろしいかは、創世記4章の伝える、カインが弟アベルを殺したことや、創世記27章の伝える、エサウが弟ヤコブを殺そうとしたことからもよく分ります。これらは家族の中で起りました。

 また、怒りに任せて人間がどんなに残酷なことをしてきたかは、日本と世界の歴史を振り返れば、枚挙に暇(いとま)がありません。民族と民族、国と国との衝突や戦争においてだけではありません。普段は大人しい普通の人が、長く溜めていた怒りをついに爆発させ、豹変し、人を殺す!怒りの持つ怖さを、私たちはよく知っていなければなりません。

 無論、全ての怒りが罪なのではありません。悪に対する正しい怒り、いわゆる義憤もあります。主イエスも当時のパリサイ派の人や律法学者たちの偽善や罪に憤られました。けれども、相手の存在そのものまで否定する怒りは罪です。神は私たちを裁かれます。

 私たちは自分の心を良く支配しなければなりません。神はカインに言われました。創世記4:7「戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」エペソ4:26は言います。「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。」当時は日没で日付が変わりました。従って、ここはその日の内に怒りの感情は終らせよという意味です。

 さて、第6戒を破る罪としてイエスが上げられる二つ目は、人を侮辱し、蔑(さげす)むことです。22節「兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院で裁かれます。『愚か者』と言う者は、火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

 最高法院とは、当時のユダヤで宗教と政治の最高の権威を持っていた議会、サンヘドリンのことです。大祭司を中心に祭司長や律法学者など72人で構成され、人を死刑に定める裁判機能もありました。しかし、イエスがここで言われるのは、実際の最高法院以上の、神の法廷での裁きであることは、すぐ分ると思います。

 「ばか者」と訳されているギリシア語は、「馬鹿だね」という感じの軽い言葉ではなく、「間抜け、頭の中が空っぽ」という意味で、知的な面で人を馬鹿にし蔑む言葉です。また「愚か者」と訳されているギリシア語は、「価値がない」という意味で、特に道徳的に最低という位の侮辱の言葉なのだそうです。

 人をここまで蔑み、侮辱する時の人間の心の中はどうでしょうか。相手を全く見下し、生きる価値を認めていません。これはもう心の中の殺人ですね。イエスはこの点を鋭く指摘されるのです。

 怒りの感情の持つ怖さと罪深さは先程見ましたが、人を侮辱することも、神の形に造られた他の人の人格や存在価値を認めず、十戒の第6戒を破る恐ろしい殺人行為に他なりません。

 学校や企業、色々な施設における、言葉や態度や力による苛(いじ)めやパワーハラスメントは皆、人を見下し、馬鹿にし、蔑む心から生じています。これらにより自殺に追い込まれた人たちはどんなに多いでしょう。

 この問題は一つの家の中でも起り得ます。夫が、妻が、互いに相手を侮辱し、罵(ののし)り、年老いた親を蔑み、子供をネグレクト(無視)し、苛める。舅や姑が嫁を苛め、その逆もあります。苛められた者は、次に自分より弱い下の存在だと思える別の人を侮辱し、けなし、蔑み、苛める。恐ろしいウィルスのように、罪は伝染します。罪の連鎖が起るのです。

 知的にも道徳的にも文化的にも程度が低いとして他者を侮辱し蔑む罪は、民族と民族、国と国の間にも広がり、エスカレートします。この罪から免れてきた国や民族は、一つも存在しないのではないでしょうか。

 ヘイトスピーチという言葉がありますね。侮辱、嫌悪感、憎しみを込めた言葉で、自分の気に入らない嫌いな相手や団体や国などを、ひどい言葉でなじり、こき下ろし、排斥し、叩き潰そうとする。アメリカでは選挙戦の時にも見られるようですが、日本でもインターネット上で、特に偏狭な愛国心から他民族の方々へのヘイトスピーチが見られ、背筋が寒くなります。本当に嘆かわしい危険な状況が今の日本でも見られます。

 他者の知性や人間性、道徳性や文化的なものを見極める正しい批判能力は必要です。しかし、他者を見下し、馬鹿にし、侮辱する所まで行くなら、それは神が創られた個々の人間の尊厳を踏みにじり、他者の存在を否定することです。度を越しています。神の目には殺人です。

 以上、人への怒りと侮辱の持つ罪深さを見てきました。では、私たちはどうすれば良いでしょうか。和解、つまり、人との和解、また私たち罪人を永遠に断罪し滅ぼすことの出来る生ける神との和解がどうしても必要です。イエスはそれを23節以降でお教えになります。

 しかし、今朝は残り時間が少ないですので、怒りと侮辱の罪を私たちが少しでも犯さないために、どうすれば良いかを6つばかり学んで終りたいと思います。

 第一は、自分の感情や気持など自分の心を冷静に客観的に良く観察することです。自分は今、何故か苛々(いらいら)し、腹が立ち、心がささくれ立っているというような時、私たちは自分で自分の心を観察し、原因を良く考えることが大切です。そうするだけで、過剰な怒りや人を蔑む感情からかなり解放されます。詩篇42:5で「わが魂よ、何故お前はうな垂れているのか、私の内で思い乱れているのか」と詩篇作者は自分を観察し、うな垂れる原因を考え、自分に理由を尋ねます。クリスチャンは自分で自分を良く観察し、自分を良く知ることが大切です。

 第二は、怒りが爆発し、或いは侮辱の言葉が口に出そうになる時は、深呼吸することです。確か、淀川キリスト教病院の名誉ホスピス長の柏木哲夫先生が、40年位前に精神科医として書かれた本に、子供を怒鳴って叱りたくなる時、深呼吸をすると落ち着くので良い、と書いておられたのを思い出します。その通り、深くゆっくり息を吸うことで、タイミングがずれ、ワンクッションを置くことで気持が微妙に変り、余裕が生れます。ヤコブ1:19は「人は誰でも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい」と教えます。アーメンですね。

 第三は、人への深く根に持つ怒りや侮辱は、人の人格と存在を否定する殺人行為であり、第6戒を破る恐ろしい罪だと、ハッキリ自分に教育することです。

 このことに限らず、クリスチャンは聖書の御言葉によって絶えず自分を教育し、更に言えば、かつて20世紀最大の説教者の一人と言われたマーティン・ロイド・ジョンズが言いましたように、クリスチャンは御言葉によりもっと自分に説教をしないといけません。すると、罪と戦える強い自分に変えられ、祝福されます。

 第四は、特に仕返ししたい程の怒りについてですが、私たちの知らない相手の事情もあるかも知れません。ですから、裁きは神に委ねることです。ローマ12:19は言います。「愛する人たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに委ねなさい。「『復讐は私のもの。私が報復する。』主はそう言われます。」

 第五は、相手のために祈ることです。私たちは、怒ったり蔑んだりはしても、相手のためにどれだけ祈っているでしょうか。イエスはマタイ5:44で「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。そうであるなら、私たちはもっと相手のために祈るべきではないでしょうか。

 第六は、怒り続け、或いは人を侮辱することは、実は折角イエスが命を献げ贖って下さった私たち自身を低め、卑しめることです。神から頂いているエネルギーを、そういうネガティヴなことに使うのではなく、他のもっと意味のある尊いことに用いるように、自分の心を切り替えることです。「怒りや人を蔑む心を、私はいつまでも引きずっていてはならない。私は、主が私に期待しておられる麗しい御霊の実、ガラテヤ5:22、23の言うように、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制などにこそ生きるのだ。また、今苦しみや悲しみや辛さの中にある方々のためにこそ、私は魂のエネルギーを注ぐのだ」と自分の心を切り替えるのです。

 主イエスは私たちを愛するが故に、私たちの気付きにくい罪を取り上げ、私たちを救おうとしておられます。どうか、主が必要なことを更に私たちにお教え下さり、私たちを、一つまた一つと罪から解放し、ご自身の麗しいお姿にもっともっと近づけて下さいますように!

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