2020年08月27日「主の祈りの学び19 第四祈願 2」

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主の祈りの学び19 第四祈願 2

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章9節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
    (新改訳聖書 2017年度版)マタイによる福音書 6章9節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 主イエスが祈りの模範として教えられた主の祈りの第四祈願、「私たちの日毎の糧を、今日も与えて下さい」を今日も学びます。

 前回は、私たちの生活上の必要を願うこういう祈りを神に捧げる際、最終的には神の栄光が私たちを通して表されるためにという明確な目的意識をもって祈ること、また先々の分まで過剰にではなく、日毎に必要な分を願う慎ましさを学びました。

 さて、今日学ぶ一つのことは、私たちは心から謙(へりくだ)りをもって神に祈り求めるべきだという点です。これはどの祈りでも同じですが、特に第四祈願においてはそうです。

 何故私たちは心を低くして神に祈るべきなのでしょうか。それは、本来、私たちは、神に要求したりお願い出来る資格のない罪人だからです。

 神は愛と慈しみをもって世界と人間を創られました。しかし、悪魔にそそのかされ、人間は神のようになりたくて神に背き、堕落し、神との関係は破壊され、罪が人間の中に入って来ました。そのため、何をするにも、人間は常に自分が第一で、しかもしばしば自分を絶対視しやすい傲慢で自分勝手な者になりました。本音を言えば、神のことはどうでも良く、自分の思い通りに生きたいと思う者になりました。

 そういう私たち人間が、困った時だけ神に助けや救いを求めることなど、許されるでしょうか。食物を初めとして様々な具体的必要を、自分が苦しく不安だからと言って神に願うことは、身勝手で調子が良過ぎないでしょうか。ですから、聖書によれば、本当は私たち人間にそういう資格はありません。

 それにも関らず、私たちはイエスにより、「私たちの日毎の糧を、今日与えて下さい」と祈って良いのです。

 では、何故こう祈って良いのでしょうか。繰り返しますが、私たちの生れつきの資格や権利によるのではない。祈って良い理由は、ただただ私たち罪人を愛し憐れみ、私たちを救うために世に来られ、十字架で命を献げ、また復活された御子イエスのお蔭に他なりません。罪も汚れもシミも全くない主イエス・キリストが、感謝なことに、神と私たちの間の仲保者、掛け橋となられ、私たちを天の父に自ら進んで執り成して下さる。だから、私たちも神に「私たちの日毎の糧を、今日与えて下さい」と祈って構わないのです。

 但し、先程お話したことが根底にありますので、決して当然のようにではなく、心底謙った思いで神に願いを申し上げるのです。箴言3:34は言います。(新共同訳聖書)「主は不遜な者を嘲り、へりくだる者に恵みを賜る。」ヤコブ4:6は言います。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」

 さて、もう一つ大切なことがあります。それは、自分のことだけではなく、自分以外の人のことも絶えず心に覚えて祈ることです。

 イエスは、「私の」ではなく、「私たちの」日毎の糧を今日も与えて下さい、と祈るようにお教えになります。何気ない一言ですが、とても大切です。

 私たちは聖書が言いますように、罪ある存在ですから、お祈りもつい自分のことだけで終り、人のことはおろそかになります。無論、自分の必要のために祈って良いのですが、どうかすると自分のことしか祈らず、せいぜい自分の家族や極親しい人たちのことまでしか祈りの意識も内容も広がらないことが少なくありませんね。しかし、だからこそ、「私たちの」必要な糧を、と祈るようにイエスは教え、私たちの意識と関心、また愛と祈りを大きく広げようとしておられるのです。全てのクリスチャンのことは勿論ですが、それに留まらず、私たちの思いを、世界とそこに様々な状態で今生き、生活している方々のことまで拡げ、彼らのこともしっかり心に留め、皆の生存と生活のためにも、この祈りを捧げることを、主はお教えになるのです。

 21世紀になって、もう20年。しかし、世界を見渡しますと、今この瞬間も貧困、病気、障害、差別、紛争、災害などに苦しみ、生きることすら危うくされている人たちが、どんなに多いことでしょう。そういえば、申命記15:11はこう述べていました。「貧しい人が国の内から絶えることはないであろう。」この通り、私たちの祈りと具体的な支援や援助を必要とする人は常にいます。幼子も高齢者もいます。それなら、そういう人たちを覚えて、「私たちの」日毎の、或いは、必要な糧を今日与えて下さいと、どうして祈らずにおられましょう。また、たとえ僅かでも献げ物をもって支援しないでおれるでしょうか。

 事情が許さず、今すぐ支援出来なくても、食べること、生きることで困窮している方々のことで、天の父に心から祈りを捧げることだけは出来ます。主イエスは第四祈願を通して、私たちをそこまで隣人に仕える者へと高め、引き上げようとしておられるのです。

 自分の不信仰と罪の故に心底謙り、しかし、この地球上で生存を脅かされている大勢の人を、痛みをもって心に覚えつつ、この祈りを捧げ続けたいと思います。

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