2020年04月26日「天に召された方々を覚えて」

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天に召された方々を覚えて

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 11章13節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
11:14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。
11:15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。
ヘブライ人への手紙 11章13節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 今年も4月第4主の日の今朝、天に召された方々を覚える礼拝を持つことができ、感謝でございます。

 ただ、今年は新型コロナウィルス問題のためにご遺族をお招きできず、それとインターネット・ライブ配信による礼拝となり、皆でここで共に礼拝することができず、大変残念です。しかし、神の御心は、限られた状況でも私たちが最善を尽くすことです。むしろ、こうした形ででも記念礼拝を捧げられることを感謝し、天に召された方々に思いを向け、自らを振り返り、また人の命を司られる天の父なる神を静かに仰ぎたいと思います。

 ご承知のように、当教会の2階の納骨棚には、今、3名のご遺骨が納められています。2000年7月4日、81歳で亡くなったHSさん、2016年4月28、68歳で亡くなったNWさん、2018年2月10日、94歳で亡くなったYKさんのものです。彼らと親しかった方もあれば、生前の彼らと面識のない者も、私たちの中にはいます。従って、故人を覚えると言っても、受け止め方は実際には様々です。そこで、故人への思慕や想い出は、今は各自に任せ、この説教では、一般論として故人を偲ぶことの意義を聖書からお話したいと思います。三つばかり見ます。

 第一は、私たちも必ずいつかこの世を去るということです。

 先程のお三人もそうですが、彼らもかつては元気で多くのことをなさり、色々な所へ動かれ、様々なことを楽しまれました。得意なこともあり、人生を謳歌された時もありました。彼らに限らず、私たちの知る多くの故人にも、皆夫々にその人ならではの輝きがあり、人生がありました。

 しかし、皆例外なくこの世を去りました。それが人間の定めなのです。聖書は、それは創り主なる真(まこと)の神への人類の始祖アダムとエバの背きの罪の結果だと教えます。ヘブル人への手紙9:27は「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」と、更に突っ込んで教えます。とにかく、人は必ずいつか死ぬのです。故人を覚える大切な意義の一つは、私たちも彼ら同様必ずこの世を去る時が来ることを、心にハッキリ刻むことです。

 私たちは普段、自分の死を殆ど意識せず、好き勝手にあれこれ考えて生きていると思います。しかし、ヤコブの手紙4:13~16は、こう釘を刺します。「『今日か明日、これこれの町に行き、そこに1年いて、商売をして儲けよう』と言っている者たち、よく聞きなさい。あなた方には、明日のことは分りません。あなた方の命とは、どのようなものでしょうか。あなた方は、暫くの間現れて、それで消えてしまう霧です。あなた方はむしろ、『主の御心であれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです。ところが実際には、あなた方は大言壮語して誇っています。そのような誇りは全て悪いことです。」厳しい言葉ですが、何と重要な注意でしょうか。神は私たちを愛するが故に、厳然としたこの事実に目を留めさせ、そこから救い主イエス・キリストに目を向けさせ、死の彼方に主がご用意下さっている天の御国(みくに)にイエス・キリストへの信仰によって入ることを、聖書で教えておられるのです。

 故人を覚える意義の第一は、私たちもいつか必ず死を迎えることをハッキリ意識することにあります。これは私たちの胸がキュッと締め付けられる厳粛な事実です。でも、何と大切で尊い点でしょうか。

 第二点に進みます。それは私たちの前に歩まれた人生の諸先輩を通して神が教えておられる、人間として大切なことを、謙虚にかつ積極的に学ばせていただくことです。

 先程お読みしましたヘブル人11:13~16は、11:1から続く一連の教えの一部です。ここは要するに、遥か昔に天に召された旧約時代の多くの信仰の先輩たちの信仰とそれに基づく彼らの生き方を夫々簡潔に記しています。何のためにでしょうか。紀元1世紀の後半、様々な苦しみや試み、誘惑に遭っていた初代教会の信徒たちを励まし、旧約時代の信仰の先輩たちに倣う者とならせるためです。例えば、11:16で著者は次のように述べ、手紙の読者たちを励まします。「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち、天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです!」

 故人は単に故人ではありません。彼らは私たちの人生の先輩です。特に彼らがクリスチャンであった場合には、信仰の先輩であり、私たちがその気になれば、神は彼らから必ず人としての、また信仰者としての非常に大事なことを沢山学ばせて下さいます。

 また、たとえ故人が洗礼を受けたクリスチャンでなくても、学べることはあります。神はそのようにしておられるのです。

 個人的なことをお話させていただきます。私の両親は、──私も一生懸命伝道しましたが──残念なことに、クリスチャンになりませんでした。しかし、私が洗礼を受けることにも、私がある企業を辞めて神学校へ進み、牧師になることにも一切口出しせず、私を認めてくれていました。私が働いた教会にも何度か来て礼拝にも出ました。食前の祈りも黙ってさせてくれました。孫たちも大事にしてくれました。警察官だった父は真面目な顔をし、それでいてよく冗談を言い、人を楽しませてくれました。それはそれとして、私は彼らから「責任をもって誠実に生きること」を何より教えられたと感謝しています。

 イエス・キリストを信じ、クリスチャンではあっても、人には皆必ず何らかの弱さがあり欠点があります。生れながらの罪のために、完全な人など、この世に一人もいません。しかし、欠点の大きく目立つ人であっても、私たちはそれを反面教師とすることができますし、それだけでなく、彼らに実は悲しい過去があったり、辛いことを我慢していたりして、教えられることがあるものです。

 とにかく、どんな人にも、神の恵みにより必ず良い点や学べる点があり、私たちの知らない所で立派なことや良いことをしていたりして、とても教えられることがあります。以前、私が牧師をしていましたT教会のある年配の女性は、目の不自由な方々のために、黙々と何十年間も点訳奉仕をしてこられ、亡くなった時にはそれが何百冊にもなっていました。皆、驚き、感動したものです。

 旧約聖書の伝える信仰者たちに共通する、そして私たちが目を留めるべきとても大事なことの一つは、ヘブル11:13が伝えますが、「信仰の人として死に、約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者である事を告白して」いたことです。これは信仰者の学ぶべき何と大切なことでしょうか。

 故人を覚える意義の第二は、人生の諸先輩を通して、神が教えておられる、人として真に大切なことを私たちが謙虚に、でも、しっかり学ばせていただくことです。

 最後に三つ目を学んで終ります。何でしょうか。先程の点から必然的に出て来ることですが、いつか私たちが天に召される時、今度は私たち自身が、自分の遺族や教会の友人を初め、様々な方々に、人として少しでも良い模範となることを目指すことです。先程お読みしました御言葉からも良く分りますように、聖書によれば、これが神のご計画と摂理により私たちが順番にこの世に生れ、生き、また順番に世を去ることの非常に尊い意義の一つなのです。

 私たちは皆、人生の、特に信仰の先輩から学ばなければなりません。そうであるなら、私たちもまた残される人に良い手本となることを主は望んでおられます。私たちの考え方・人生観・世界観・価値観…。私たちの口にする言葉とその内容、その質…。また私たちの行い・振舞い、また一生懸命祈って何に誠実に献身的に取り組んだか。要するに、私たちの人格と生き様を通して、隣人や残される大切な人に少しでも良い証しとなり、お手本とならせていただく!これが聖書を通して神が私たちに教え、期待しておられることなのです。

 もっとも、これを過度に意識しますと、信仰の弱い私たちは委縮し、ノイローゼになるかも知れませんね。しかし、ヘブル書11章が旧約の信仰者たちについて、非常に事細かにではなく、彼らの生き方の中心点を伝えますように、私たちも、例えば、マタイ6:33でイエスがお教え下さった「まず神の国と神の義を求め」るなど、中心となる基本的な姿勢が何より大事なのです。あるいは、今礼拝で学んでいますマタイ5章のイエスの幸福の教え、つまり、心が貧しく、柔和であること、義に飢え渇いていること、心の清いことなど、八つの点を心に留めるだけでも構いません。

 いずれにせよ、次は私たちが人に思い出され、話題に上り、「あの人はああだったなぁ。こうだったなぁ」などと言われる時が来ます。皆、順番にそうなるのです。これは避けられません。でも、たとえ小さなエピソードであっても私たちが話題に上った時に、誰かのために少しでも貢献でき、勇気や喜びを持っていただくことができ、特に素晴らしい生ける真の神とその独り子イエス・キリストを証しできますならば、何と幸いでしょうか。

 それと、私たちが死んだあと、人は私たちの何を話題にするだろうかと気にすることを通して、実は神は私たち自身の体も魂も守り、天国に入れられるに、より相応しい者へと訓練し、清め、神の作品として完成させようとしておられるのです。

 三つ目は、いつか私たちが天に召される時、今度は私たちが残される方々に、人として少しでも良い模範となり、良い証しとなることを目指すことです。

 召天者を覚えることで、自分もいつか死ぬことをキッチリ自覚し、また人生の先輩の良い点をよく学び、更に自分もやがて誰かに思い出され話題に上る日が来ることを覚え、改めて主イエス・キリストを見上げ、主の御足の跡を踏みしめて生きる者とされたいと願います。

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