2024年02月25日「神に背負われる幸せ」

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神に背負われる幸せ

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
イザヤ書 46章1節~4節

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46:1「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。
   彼らの像は獣と家畜に乗せられる。
   あなた方の荷物は、
   疲れた動物の重荷となって運ばれる。
46:2 彼らは共にかがみ、ひざまずく。
   重荷を解くこともできず、自分自身も捕らわれの身となって行く。

46:3 ヤコブの家よ、私に聞け。
   イスラエルの家の全ての者よ。
   胎内にいた時から担がれ、
   生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなた方が年を取っても、
   私は同じようにする。
   あなた方が白髪になっても、
   私は背負う。
   私はそうしてきたのだ。
   私は運ぶ。
   背負って救い出す。イザヤ書 46章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

 キリスト教信仰が私たちに与える最大の幸せは、何といっても神の独り子イエス・キリストを心から信じ依り頼む者に、天地万物を創られ、全てを支配しておられる天の父なる神から、罪の赦しと永遠の命が与えられることです。

 しかし、実際には、これを中心に色々な幸せがあります。今朝は「神に背負われる幸せ」を心に留めたいと思います。

 1、2節から分りますように、ここは昔、バビロンという国でベルとかネボと呼ばれて拝まれてた偶像の神々と比べ、真(まこと)の神がどんなお方かを、神ご自身が語られた所です。偶像は金や銀でどんなに見事に作られていても、自分では動けず、動物に背負われて運ばれ、しかしその動物が躓けば、偶像は転げ落ちて壊れます。何の力もない偶像を信じていたら、最後は悲惨なことになるということです。

 しかし、真の神は違います。古代イスラエル民族は度々罪を犯し、神の厳しい罰を受けましたが、悔い改めるなら、神は必ず恵みをもって臨んで下さいました。

 ここで恐らく私たちの心に一番響くのは、神が信仰者を背負って下さることだと思います。親の背中でくつろぎ、眠る幼子程、幸せなものはありませんね。実はイエス・キリストを心から信じて神の子供とされた者も、これと同じ幸せに与っています。

 そして、特に神がどういうお方かを考えますと、私たちに与えられる幸せが、一層よく分かると思います。そこでその点を四つ見てみます。

 第一は、神が決して変わることのないお方であることです。

 この世は常に変わっています。ここ数十年で世界は驚く程変わりました。今後もどんなに変わるでしょうか。一体、私たちは何に頼れば良いのでしょう。自分の健康でしょうか。自分の力でしょうか。しかし、人一倍健康に自信があり、何か出来る力があっても、それらはちょっとしたことで忽ち失われます。この世は変り、私たち自身も変わる。私たちは何を頼れば良いのでしょう。

 ここに福音があります。4節「あなた方が年を取っても、私は同じようにする。あなた方が白髪になっても、私は背負う」と言われる決して変ることのない真の神がおられるのです。

 親に背負われている子供も、揺れはします。しかし、親がしっかり支えていますので落ちません。神に背負われていても、試練の時は、私たちも動揺します。でも落ちません。この世の全てが変わり、私たちの健康や出来ることが変っても、永遠不変の神が信仰者を背負って下さるからです。

 神は言われます。マラキ3:6「主である私は変わることがない。」救い主イエス・キリストも変わりません。ヘブル13:8は言います。「イエス・キリストは昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」決して変わることのない神に背負われる幸せ!これが第一点です。

 二つ目は、神がとことん真実であられることです。天地の造り主、真(まこと)の神は、御子イエスを心から信じる者を、ご自分の責任で必ず背負い続けて下さいます。

 実は元のヘブル語聖書では、神は4節で5回も「私、私」と言っておられます。何かを責任をもって引き受ける時、私たちも「私、私がやります。私が」と何度も「私」と言わないでしょうか。神は何と5回も「私、私」と言って、責任を取ると言われるのです。何という神の真実でしょう!

 クリスチャンであっても、神をよく忘れ、自己中心的なことが多く、それでいて辛い目に会いますと、すぐ神に文句を言いかねない私たちです。それなのに神は、「私」があなたを私の子としたのだから、「私が背負い、私が運ぶ」と力を込めて言われるのです。

 無論、私たちも種々努力します。でも、それは神の背中の上でする努力のようなものです。神の恵みの中で努力させて頂くのです。

 神は真実です!どんな困難が襲おうとも、謙って(へりくだって)心からイエス・キリストを信じ、寄り頼む者を、神は最後まで責任をもって背負われます。私たちが「白髪になっても」です。それどころか、寝たきりになり、何も出来ず、自分のことも周りのことも分らないぐらい衰え、認知症になっても、神また御子イエス・キリストは信仰者を背負い、どこまでも真実であられます。Ⅱテモテ2:13が言いますように、私たちが真実でなくても、キリストは常に真実で、ご自分を否むことが、お出来になりません。それも私たちのためにそうでいて下さいます。ですから、私たちも自分を全く神に委ねて良いのです。

 幸せの三つ目は、神が力に満ちた方であられることです。

 神が、永遠不変で、真実であられることは、素晴らしく感謝なことですね。けれども、実は神は、更に力に満ちた方でもあるのです。イザヤ46:9~11で神は言われます。「…私が神である。他にはいない。私のような神はいない。…私は後のことを初めから告げ、私の計画は成就し、私の望むことを全て成し遂げる。実行する。…私は語って、それを来らせ、計画を立てて、それを実行する。」真の神は、この世がどう変わろうとも、ご自分の計画を必ず実現させる力に満ちた全能者なのです。

 実際、神は昔、エジプト、アッシリア、バビロンなどの超大国から、小さなイスラエルを奇跡的な力をもって救われました。しかし、神の力は何といっても、御子イエスが処女(おとめ)マリアより誕生されたこと、その生涯の偉大な御業(みわざ)、特に私たち罪人の救いのための十字架の死と復活に最高に現されました。それらは皆、旧約聖書の預言の成就だったのです。

 感謝なことに、そういう全能の神が、謙って心からイエスを信じる者に、「私は運ぶ。背負って救い出す」と断言しておられるのです。この世で不安や悩みが尽きず、落胆しやすい私たちにとって、これは何と大きな慰めと平安、そして勇気を与えることでしょうか。

 讃美歌21-484番「主、われを愛す」には、「主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」という歌詞があります。その通り、主イエスを心から信じ依り頼む者は、本当にこう歌える恵みを頂けるのです。

 全くの無から天地万物を創られ、私たちの救いのために十字架で命を献げられた御子イエスを三日目に復活させられた全能の神は、ご自分を頼る者に「私は運ぶ。背負って救い出す」と約束されます。この力に満ちた神に背負われる幸せに、是非、与りたいと思います。

 最後、四つ目の幸せは、神が必ず救いを完成して下さる愛と憐れみに満ちた方であることです。

 神は言われます。4節「あなた方が年を取っても、私は同じようにする。あなた方が白髪になっても、私は背負う。私はそうして来たのだ。私は運ぶ。背負って救い出す。」

 救いには、この世で私たちが色々な困難に耐えられるという点があります。イザヤ63:9に「彼ら(信仰者)が苦しむ時には、いつも主(神)も苦しみ」とあります。

 子供が苦しむ時、一緒に苦しまない親がいるでしょうか。信仰の故に私たちをご自分の子とされる神も同じです。私たちが喜ぶ時、神も喜ばれ、私たちが苦しむ時、神もそれをご自分の苦難として私たちと共に担い、やがて私たちを救い出されるのです。Ⅰコリント10:13は言います。「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さいます。」

 

 かつて淀川キリスト教病院で私がチャプレン(病院牧師)として勤務していた時の、ある男性患者さんのことを思い出します。重い病であった彼は、私より少し若い方でした。ある時、「自分がどんなふうに死んでいくのか、それを思うと怖いです」と正直におっしゃいました。

 その時、私は先程の聖書の御言葉(みことば)、Ⅰコリント10:13を彼のベッドサイドでゆっくり読みました。すると彼は安心した顔でこうおっしゃいました。「あぁ、神様は耐えられない試練は、私たちに与えないのですね。あぁ、良かった!分かりました!」やがて退院された彼は、ご自分の家の近くの教会で洗礼を受けられました。その後、何度か、入退院を繰り返され、最後は、ご自分の家で、ご家族に囲まれながら、穏やかに天に召されました。

 試練は尚も続くかも知れません。しかし、信仰者自身は必ず守られます。

 さて、救いの最も中心的なものは、罪の赦しと永遠の天国への救いです。これがないなら、私たちの人生は無意味になるでしょう。

 不信仰な私たち罪人ですが、何度でも自分の罪を悔い改め、主イエス・キリストに依りすがるなら、神は決してお見捨てになりません。むしろ、すがりついて救いを求める者を、神は必ず赦し、救いの完成まで必ず背負って下さいます。誰も何もこれを妨げることは出来ません。ローマ8:38、39は言います。「死も、命も、御使い(みつかい)たちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にあるものも、深い所にあるものも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことは出来ません。」

 神に背負われる幸せを見てきました。第一に、この世や私たち自身がどんなに変わっても決して変らず、第二に、約束されたことにとことん真実であられ、第三に、ご自分が計画されたことは必ず御力(みちから)をもって実現させ、第四に、どんなに弱くても、イエス・キリストを心から信じ寄り頼む者を、この世でも守り、特に永遠の救いへと必ず入れて下さる愛と憐れみに満ちた真の神!ただ、幼子のようにイエス・キリストを心から信じ、委ね、神に背負われるこの最高の幸せに、是非是非、ご一緒に与りたいと思います。

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