2024年02月04日「福音の力を信じて」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じる全ての人に救いをもたらす神の力です。
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり、信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。ローマの信徒への手紙 1章16節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 今日は午後、当教会の今年度の定期会員総会があります。昨年の諸報告を通して、私たちの歩みを振り返り、あるいは反省し悔い改めると共に、この小さな教会に、昨年、神が与えて下さった恵みの数々を覚え、感謝と賛美を神に捧げたいと思います。

 それと、始まってひと月が経ちましたが、今年の私たちの歩みを心に覚え、皆で固く手を携え合って歩もうという決意と祈りを、新たにしたいと思います。

 そこで今朝は、当教会の今年の標語を少し確認致します。週報の1頁目の表紙にありますように、今年の教会標語は「福音の力を信じ、喜びと希望をもって歩もう」です。前半はローマ1:16に基づき、後半はローマ12:12の御言葉に基づきます。

 これは、前向きで力強い標語だと思います。そしてここに、これを今年の標語に定めた伝道所委員会の祈りがよく表れていると思います。

 当教会は、教会規定の上ではまだ伝道所です。長老を持たず、牧師と長老とで構成する小会がまだないからです。長老や執事など教会役員を選出し、教会設立をしたいという願いは、何年も前からありました。しかし、教会員、特に現住陪餐会員がまだ20名少々という現状では、無理に教会設立をしても意味がないでしょう。その前に、皆でもっと伝道をし、教会員が増え、教会としての足腰がしっかりすることが大切です。その辺りのことをよく考え、伝道所委員会は、この標語を定めたのでした。

 そこで、「福音の力を信じ、喜びと希望をもって歩もう」に改めて注目致します。

 先程、これは前向きで力強い標語だと申しました。前半の「福音の力を信じ」という所で「信仰の確信」の重要性を再確認し、後半の「喜びと希望をもって歩もう」という所で信仰の確信に基づく積極的な生き方-それが力強い信仰の証しと伝道に結びつくと思うのですが-それに努めようということです。

 今朝は特に前半、すなわち、キリスト教信仰の確信を私たちが持っていることの大切さについて、改めて聖書に学びたいと思います。

 あの素晴らしい伝道者であった使徒パウロは、ローマ1:16で「私は福音を恥としません」と言います。福音とは、良き知らせ、グッド・ニュースという意味です。すなわち、神の御子イエスの十字架の贖いの死と復活の故に、そのイエスを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、依り頼むなら、どんな人でも、神に罪を赦され、神の子供とされ、いつか必ず永遠の御国に入れて頂けるという約束です。

 「恥としません」とあります。やや弱く響きますが、これは修辞法的な表現であり、本当は「大いに誇りとしている」という位、強い確信の表明に他なりません。実際、ローマ書より少し前に書かれましたガラテヤ6:14で、パウロは「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」と書いています。

 或いは、ローマの教会には、力を誇るローマ帝国の中でキリスト教信仰に少し引け目を感じ、信仰を表明することをためらう者もいたために、パウロはこういう言い方をしたのかも知れません。いずれにせよ、「私は福音を最高に誇りとしている」という位、これは強い確信の表明です。この福音の確信故に、パウロは15節で「私としては、ローマにいるあなた方にも、是非、福音を伝えたい」と言うのでした。

 16節でパウロは、福音が「ユダヤ人を初めギリシア人にも、信じる全ての人に救いをもたらす神の力」だと言います。力を表すギリシア語は八つ位ありますが、ここではダイナミックやダイナマイトなどの語源となるデュナミスという力強いギリシア語が使われています。御子イエスにより現された神の愛と憐れみによる永遠の救い、そして祝福と守りという福音、すなわち御言葉の約束を、心から信じ、従い、委ねる時、人は本当に永遠に救われ、地上の全生涯も神の子供として必ず守られるということです。

 これは本当でしょうか。本当です。しかし、一つ大事な点があります。16節で「信じる全ての人に救いを」と言われていますように、神を、また救い主イエスを、本当に信じ、御言葉の約束、すなわち、福音のその力を本気で信じ、本気で従い、本気で委ねることが大切です。

 私たちには、生れながらに罪の性質、いわゆる原罪があります。従って、創り主なる真(まこと)の神を信じない傾向が、生れた時からあります。その上、人は皆、偽りますし、自分も偽る。ですから、私たちはつい、その延長線上で神のことも考えます。そのため、すんなり神を信じられず、信じても、どこか疑う部分が残るのです。それと、聖書が教える通り、悪魔・サタンが常に私たちに働きかけ、神とその約束、すなわち、福音を疑わせようとして働いています。

 細かいことを、今、言いましたのは、こういう自分自身をよく知っていませんと、私たちは物事を自分の物差しだけで計り、自分の周りを、結局、堂々巡りする人生で終りかねないからです。

 けれども、御言葉の光の下に人間を、いいえ、私たち自身を知りますと、感謝なことにそこから、私たちは自分がどうあることが幸いなのかをも教えられ、自分が変えられ、自分が守られるのです。

 マルコ9:14以降に、幼い時から病気でひどく苦しむ息子を癒して頂きたくて、イエスの所に来た父親のことが伝えられています。信仰の弱さをイエスに指摘され、ハッと気付いた彼は、24節「信じます。不信仰な私をお助け下さい」と叫びました。こうして、イエスを本気で信じることに伴う神の恵み、すなわち、自分と自分の愛する家族の救いをも、彼は本当に体験したのでした。

 福音を信じる本当のキリスト教信仰は、神がおられることや歴史の中で神が信仰者のためになさったこと、特に二千年前、イエスが語られ行われたことを、事実として知的に信じるだけではありません。本当に「アーメン!本当にその通りです。真実です!」と言って心から信じ、そこに自分を丸ごと預け、傾け、投入することなのです。

 例えば、主イエスはマタイ5:3で、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」と語られました。神の前での徹底した謙り(へりくだり)が如何に幸いかを、イエスは「山上の説教」の中で真先に語られたのです。ということは、神の前での謙り程、尊いものはないということです。

 しかし、これが分かるなら、ルカ18:13が伝える取税人のように、私たちは直ちに頭(こうべ)を垂れ、自分の胸を打ち叩いて、「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と祈り、本当に自分を徹底的に低くしたいと思うのです。すると、謙る者に神がご用意下さっている清い喜びや平安を覚えることができ、困難は続いていても、神のご支配の下、天の御国に至る時まで、誠実にしっかり歩んで行けるでしょう。

 またイエスはマタイ5:8で「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです」と言われました。心が清いとは、心のアンテナが創り主、また永遠の救い主であられる真(まこと)の神にしっかり向いていることです。

 愚かなことにいつも心を向けていますと、私たちはますます愚か者になり、自分を永遠に滅ぼしかねません。

 人間は、自分の関心のあるものは見えるのです。ですから、神にいつも関心を向けている人は、他の人には何でもない小さなことにも、神の知恵や力、聖さ、愛、真実、微笑みさえ発見し、まさに神を見、確信は一層増します。そこから、神の恵みを分かち合うこと、つまり、伝道も可能となるわけです。

 まだ真の神を知らない方々、そして私たち自身や私たちの大切な家族のためにも、神の救いと祝福の約束、すなわち、イエス・キリストの福音の力を改めて固く信じ、是非、皆で支え合ってこの新しい年を歩んで行きたいと思います。

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