2020年07月23日「あとで分るようになる」

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あとで分るようになる

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 13章4節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分らなくても、後(あと)で分かるようになります。」
    (新改訳聖書2017年度版から)
ヨハネによる福音書 13章4節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 今日は、イエスの語られた御言葉(みことば)の一つ、7節「私がしていることは、今は分らなくても、後(あと)で分るようになります」に注目致します。

 4、5節が伝えますように、イエスは弟子たちとの最後の食事の席で立ち上り、上着を脱ぎ、手拭いを腰にまとい、たらいに水を入れて彼らの足を洗い、腰の手拭いをとって拭き始められました。これに戸惑う弟子のペテロは、6節「主よ、あなたが私の足を洗って下さるのですか」と言いました。元はこういう文脈で語られたものです。そして確かに後にペテロや弟子たちは「洗足」と呼ばれるイエスのこの行為の大切な意味が分かるようになります。

 この通りなのですが、イエスの言葉は興味深いと思います。「今は分らなくても、後で分るようになる。」ここから教えられる第一のことは、私たちには皆、その時には意味の分らないことがあるということです。

 私たちには、物事の意味がすぐ分らないと、イヤで我慢できないという傾向が少なからずあると思います。けれども、現実の生活では、意味のすぐ分らないことはどんなに多いでしょう。予期しない問題に遭遇し、或いは納得出来ない評価や扱いを受けるなど、様々です。そこで私たちは、時に苛立ち、憤慨し、時に落ち込み、やる気を失います。

 しかし私たちはここで、その時に分らないことで苛立ったり落ち込むなどして振り回されている自分にストップをかけ、むしろ、その時には分らないことがあるのが極普通のことだということを思い出したいと思います。神の御子イエスがご自分の愛しておられる弟子たちになさることであっても、「今は分らない」ということがあるのですから。

 しかし第二に、主がいつかその大切な意味を分らせて下さることを思い起し、心に留め、いわば期待しつつ、心を落ち着かせ、その分らせて下さる時を静かに待ちたいと思います。イエスは7節「後で分るようになります」とペテロに約束されました。

 「後で分るようになる。」このイエスのお言葉、お約束は、少なくとも私にはとても大きな励ましです。何かのことで心が騒ぎ、乱れている時、この主の約束を思い起し、心の内で確認すると、希望が湧き、心も落ち着きます。頑張ってみようという気にもなります。こういうことは、皆、多かれ少なかれ経験しているのではないでしょうか。

 聖書には、この類の例が幾つも見られます。例えば、創世記37章以降には信仰者ヨセフの、出エジプト記にはモーセの、サムエル記一 18章以降にはダビデの、夫々味わった苦しみが伝えられています。彼らはいずれも大きな、それもひどく理不尽な苦しみに何度も遭いました。辛くて、また馬鹿らしくなって、ヤケを起しても変ではありませんでした。

 しかし、後になって、全てのことに意味があり、神の賢い救いのご計画と、またご自分の子供となさった信仰者に大切な尊い使命を果たさせるために、いよいよ訓練されるという神の清い御心のあることが分りました。神の御子イエス・キリストは今も私たちに約束されます。「後で分るように」なると。

 最後、三つ目ですが、大切なのは「後で分るようになる」ことを神に期待しつつ、今の時を神と人の前に信仰と良心とをもって誠実に生きることです。

 ヨセフもモーセもダビデも、彼らを取り囲む周りの人間がひどいのですから、「真面目に生きるなんて、馬鹿らしい」と言って、神への信仰はほどほどにし、無神経な人や悪い人やずるい人たちに仕返しや意地の悪いことをするなど、自分を低めて生きることも出来ました。

 しかし、彼らは決してそうはしませんでした。全てをご存じで、いつか必ず善をもって報いて下さる神を見上げ、神から与えられた信仰と良心に従い、あくまで誠実に、またへりくだって歩みました。そして本当に「後で分るように」なりました。

 実際には、この世では最後まで分らず、死を前にしても「主よ、どうしてなのですか。いつまでですか」と詩篇13編のように何度も神に申し上げるようなこともあると思います。しかし、それでも私たちを極みまで愛し、それ故、私たちの罪をことごとく背負い、十字架で命を献げて私たちの罪を償い、また復活され、永遠の救い主となって下さった主を見上げ、あくまで信仰と良心に従って生きたいと思います。

 すると、いつか主イエスに手を取られて天の御国に入れられる時、「後で分るようになる」という主のお約束を完全な意味で体験し、言葉に表せない喜びと感謝に満たされている自分を発見することを許されるでしょう。

 分らないことや納得出来ないことのために、心の乱れることも多い私たちです。けれども、私たちの弱さをよく分っていて下さるこの主イエスの約束を信じ、そのことは主に委ね、むしろ私たちは分っている主の御言葉に従って歩み、生きていきたいと思います。

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