2023年12月21日「主イエスのへりくだり(キャンドル礼拝)」

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主イエスのへりくだり(キャンドル礼拝)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 2章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2:2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
2:3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
2:4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に「寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。ルカによる福音書 2章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 神の御子(みこ)イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスの出来事には、多くの点が見られ、興味は尽きません。今日は、イエスのへりくだり、すなわち、神の御子が自らを驚くほど低くなさったことに改めて注目したいと思います。

 聖書全体の教理を簡潔にまとめたウェストミンスター小教理問答の問23は、「キリストは、私たちの贖い主(あがないぬし)として、預言者、祭司、王の職務を、へりくだりと高挙(こうきょ)とのどちらの状態においても果たされる」と告白しています。その通りであり、イエスのへりくだりは、イエスがマリアのお腹に宿られた時から、もう始まっていたのでした。

 イエスは万物を創られた三位一体(さんみいったい)の真(まこと)の神の第二人格、つまり、子なる神であられます。それなのに、聖霊によりマリアの胎に宿られた時から、神の律法の下にご自分を置かれ、人間社会の法や秩序、それもルカ2:1以降が伝えますように、時の権力者・ローマ皇帝の支配下に自らを置かれたのでした。1節は言います。「その頃、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。」そして3~5節は伝えます。「人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。」

 イエスのへりくだりは誕生後に始まったのではなく、マリアの胎内にあった時から、人間社会の法と秩序、それもユダヤを支配していたローマ帝国の権力下に、ご自分を置かれたのでした。

 また、北のガリラヤのナザレから南のユダヤのベツレヘムまで、ヨルダン川の東側を通り、百数十kmもある道を、身重のマリアはヨセフが引くロバに揺られて下りました。何日かかったことでしょう。途中には危険もありました。こうして、マリアのお腹の中で、主イエスはもうそんな時から苦痛を忍ばれたのでした。

 その上、到着したベツレヘムでも大きな困難が待っていました。6、7節は伝えます。「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

 ベツレヘムには、昔のイスラエルの王ダビデの子孫がローマ皇帝の勅令に従い、各地から大勢やって来たでしょう。しかし、今、自分たちを支配しているローマ帝国に対する反感や不満や屈辱的な気持を抱いていたと思います。そういう人たちが大勢来ていたベツレヘムは、この時、余り良い雰囲気でなかったと思われます。

 イエスは、人間のそういう決して穏やかとは言えない思いの交錯する重苦しい空気の下、しかも宿屋の一室で生れることも出来ず、また初めてのことでマリアもヨセフも焦る中、何と家畜小屋で誕生されたのです。

 ベツレヘムは、石灰岩の山で囲まれた窪地にあるそうで、家畜は低い地下や洞穴のような所で飼われたのではないかと言われています。そうだとしますと、全世界の救い主としてこの世に来られた神の御子は、人が生活する普通の居住空間・生活空間より、物理的にも更に低く、暗くて湿気も多く、家畜が飼われるそんな不潔な所で誕生されたのでした。

 そして、生れて初めて寝かされた所は、動物のよだれや汚いものがこびりついている飼葉桶の中でした。生れてすぐ、そんな汚い所に寝かせられる赤ちゃんが、どこにいるでしょうか。

 こうして見ますと、ルカが淡々と伝えているイエスの誕生場面ですが、イエスがどんなに低い状態で誕生されたかに、改めて驚きます。が、まさに私たちの救い主、神の永遠の御子イエスは、このように人となって世に来られ、誕生されたのでした。

 またルカ2:8以降が伝えますように、幼子イエスの誕生を祝うために、真先に駆け付けたのは、当時の社会で最底辺層の人たちと思われていた羊飼いたちでした。野宿していた彼らは、汚れて傷んだままの服で、それも全世界の救い主の誕生など、誰一人考えることも気付くこともない状態でひっそりと誕生された幼子イエスの所に、人が寝静まる夜中にやって来たのでした。

 その30数年後、イエスは、神が旧約聖書で約束しておられた全人類の救い主・メシアとして公に活動されるようになります。しかし最後は、ユダヤ人には呪いの徴であり、ローマ帝国にとっては国家反逆者にのみ与える最も残酷で苦痛と恥辱に満ちた十字架で殺されるのです。

 もう十分でしょう。一体、何という神の御子イエスのへりくだりでしょうか。復活され、今は天の父なる神の右におられるイエスですが、一体、どうしてここまで低い状態で誕生され、生活され、最後は惨い十字架に架けられて殺されたのでしょうか。それはただただ私たちのためだったのです。

 原罪と呼ばれる腐敗した罪の性質をもって母親の胎内に宿り、生れ出てからは絶えず思いと言葉と行いにおいて自己中心の罪を犯し、罪に支配されている私たちを、その奴隷状態から、また罪の結果である永遠の地獄から救い、清い栄光の天の御国に引き上げるためです。

 ピリピ2:6~8は言います。「キリストは、神の御姿(みすがた)であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」

 イエスは、全人類の罪ゆえに社会的に爪はじき(つまはじき)されたり、低くされている人の苦しみ、痛み、悲しみをも身をもって分り、支え、信仰による救いに与らせるためにも、神のご計画により、低く低く生れられたのです。

 クリスマスのこの時、かくまで徹底してご自分を低くされた神の御子イエスの私たちへの愛、その計り知れない憐れみ、慈しみを、改めて深く心に刻みたいと思います。

 神の御子ご自身がここまで私たちのために低くなられ、私たちのために命を捧げ、私たちにとことん仕えて下さったのです。そうであるなら、私たちも、神の前に、そして特に周囲の人や教会の兄弟姉妹たちに対して、どうして自分を低くしないでおられるでしょうか。

 また主イエスは今、色々な信仰者を通して、私たちや周囲の人たちに色々な形でご自分を提供し、仕えておられると言えます。そうであるなら、私たちも周囲の人に、特に教会の皆に身を低くして、自分の出来ることで仕えないでおられるでしょうか。

 私たちは夫々、正直な所、どういう人間像を目指し、どんな人間として自分が完成され、地上の生涯を終えて天の御国に入れられたいと思っているでしょうか。今一度、よく考えてみたいと思います。

 この点で、神の御言葉、聖書の教えはハッキリしています。神の子供とされたクリスチャンが目指す人間像とは、主イエスのお姿、ご人格に他なりません。そのイエスのお姿、ご人格の中で、特に今日、ルカ2:1~7で示されたことは、先程のピリピ2:6が言いますように、「ご自分を空しくして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられ…自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われ」たイエス・キリストに他なりません。

 2023年を間もなく終える私たちは、改めて主イエスのへりくだりを心に刻みたいと思います。そして、このような御子を救い主として賜った天の父なる神の計り知れない愛と慈しみを覚えて感謝し、神を心から賛美し、私たちも改めてへりくだり、互いに笑顔で、喜んで仕え合うしもべにならせて頂きたいと思います。その結果、この岡山西教会も、主イエスの明るい光を反射し、世の光となることを、一層許されるでしょう。

 最後に、先程のピリピ2:6の直前の2~5節にありますパウロの言葉を読んで終ります。

「あなた方は同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たして下さい。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分より優れた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスの内にあるこの思いを、あなた方の間でも抱きなさい。」

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