2023年12月14日「マリアへの神の愛」

問い合わせ

日本キリスト改革派 岡山西教会のホームページへ戻る

マリアへの神の愛

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 1章46節~55節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:46 マリアは言った。「私の魂は主を崇め、
1:47 私の霊は私の救い主である神を讃えます。
1:48 この卑しいはしために、目をとめて下さったからです。
   ご覧下さい。今から後、どの時代の人々も、
   私を幸いな者と呼ぶでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをして下さったからです。
   その御名は聖なるもの、
1:50 主の憐れみは、代々にわたって、
   主を恐れる者に及びます。
1:51 主はその御腕で力強いわざを行い、
   心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
1:52 権力のある者を王位から引き降ろし、
   低い者を高く引き上げられました。
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、
   富む者を何も持たせずに追い返されました。
1:54 主は憐れみを忘れずに、
   そのしもべイスラエルを助けて下さいました。
1:55 私たちの父祖たちに語られたとおり、
   アブラハムとその子孫に対する憐れみを、
   いつまでも忘れずに。「」ルカによる福音書 1章46節~55節

原稿のアイコンメッセージ

 アドベント中の今日は、マリアへの神の愛という点を見たいと思います。

 どんな点にそれは見られるでしょうか。

 その一つは、旧約聖書で預言されていた約束の救い主の母となるように、神が彼女を選ばれたことです。そんな光栄ある役割を担う者として、膨大な数の女性の中から彼女一人が選ばれたのでした。凄いことですね。

 では、マリアは特別に信仰深い女性だったのでしょうか。受胎告知の時のまだ年若い彼女が敬虔な女性であったことは、ルカ1:26以降から分ります。御使い(みつかい)の驚くべき告知に、彼女は38節「ご覧下さい。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉通り、この身になりますように」と、大変素直な、しかし勇気ある決断をし、自分を全く神に明け渡しました。見事な信仰です。

 とはいえ、彼女が跳び抜けて信仰深い女性であったかどうかは分りません。むしろ、聖書全体から見れば、主イエス・キリストの母となる役割を授かったのは、神の愛による一方的な選びによると言えるでしょう。

 選びと言いますと、私たちはまず救いへの神の選びを考えます。しかし、役割や奉仕への選びもあります。イエスは弟子たちに言われました。ヨハネ15:16「あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選び、あなた方を任命しました。」

 マリア自身も、自分が主の母となるように選ばれたことを、神の深い愛と憐れみによると理解したことは、1:46以降のいわゆる『マリアの賛歌(マニフィカート Magnificat)』からも分ります。彼女は歌いました。46~48節「私の魂は主を崇め、私の霊は私の救い主である神を讃えます。この卑しいはしために目を留めて下さったからです。」

 前回、イエスの育ての父となる尊い役割を与えられたヨセフを学んだ時にも申しましたが、私たちが神と人のための大切な役割、奉仕に与る(あずかる)ことは、ただ神の愛による選び以外の何ものでもありません。このことをよく考えますと、畏れと光栄で本当に身の引き締まる思いがしますね。ですから私たちも、マリアの賛歌に、是非自分自身を重ねてみたいと思います。46~48節「私の魂は主を崇め、私の霊は私の救い主である神を讃えます。この卑しいはしため(あるいは、しもべ)に目を留めて下さったからです。」

 マリアへの神の愛という点は、今触れた「マリアの賛歌」の全体にもよく表れています。この歌は無論、聖霊の導きによりますが、聖霊は彼女の信仰と人格を活かして語らせられたのです。

 では、マリアの賛歌に、彼女のどんな信仰と人格が表れているでしょうか。

 第一は、謙虚さです。先程も見ましたが、彼女は自分を48節「この卑しいはしため」と呼びます。彼女は38節でも自分を「主のはしため」と言っていました。「卑しい」は、ギリシア語では単に「低い、貧しい、卑しい」という意味であり、何らかの社会的階層を指すものではありません。彼女は何より神の御前での自分の低さを告白しているのです。50節や54節で主の「憐れみ」に触れていることも、彼女の謙虚さの表れですね。

 第二は、この謙りに基づく神への見事な信頼、確信です。この世の厳しい現実だけに目を奪われ、神にもう殆ど何も期待しないというのではありません。51~55節には、神への彼女の見事な信頼、確信がよく表れています。彼女は、義なる神による逆転劇をもしっかり告白しています。神への信頼と確信は、御使いの言葉を素直に受け留め、自分を全て神に明け渡しました1:38の彼女の言葉にも見られました。マリアの、ある意味、大胆さは、神への見事な信頼、確信に基づくものに他なりません。

 第三は、神賛美と神を喜ぶ喜びの豊かさです。これは、彼女が真先に歌いました46、47節の「私の魂は主を崇め、私の霊は私の救い主である神を讃えます」という言葉に何よりよく表れていると思います。

 第一に神の前での謙虚さ、第二に神への信頼と確信、第三に神賛美と神を喜ぶ喜びの豊かさ!しかし、これらはどうやって彼女の内に育まれたのでしょうか。神が彼女を愛され、彼女も神の愛を、まだ十分には長くない人生の中で、御言葉と御霊に教えられ、気付かされ、事ある毎に心に留めて来たその積み重ねにあるのでなくて何でしょうか。結局、神の選びの愛が、マリアというこの愛すべき女性を育ててきたと言えるでしょう。まさにローマ11:36「全てのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように、アーメン」です。

 神が選びの愛をもって、どうかマリアのように、私たち一人一人をも更に育てて下さり、素晴らしい主イエスの福音の前進と御国の進展のために、もっともっと豊かに用いて下さいますように!

関連する説教を探す関連する説教を探す