2023年10月29日「宗教改革の必要性」

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宗教改革の必要性

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 19章45節~48節

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19:45 それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め、
19:46 彼らに言われた。「私の家は祈りの家でなければならない」と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを「強盗の巣にした。」
19:47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長たち、律法学者たち、そして民の主だった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが、
19:48 何をしたらよいのか分らなかった。人々がみな、イエスの言葉に熱心に耳を傾けていたからである。ルカによる福音書 19章45節~48節

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 宗教改革は1517年10月31日、ドイツのヴィッテンベルク城の教会の扉に、ルターが当時の教会宛に「95か条の提題」と呼ばれる公開質問状を貼りつけたことから始まりました。ですから、多くのプロテスタント教会は、10月31日の直前の主の日に記念礼拝を行います。

 今朝は宗教改革の必要性を学びます。そこで第一に確認したいことは、キリスト教において、宗教改革は当然のことであり、常に必要だということです。

 旧約時代にも、心ある信仰者たちにより宗教改革は何度も行われて来ました。ヒゼキヤ王やヨシュア王によるだけでなく、イザヤやエレミヤなどの預言者たちも、腐敗したユダ王国とイスラエル王国で宗教改革を行いました。

 新約時代も同じです。先程お読みしましたルカ福音書19:45~48には、神の御子イエスご自身によるエルサレム神殿での大胆な宗教改革の一端が見られます。またパウロの多くの手紙から、紀元1世紀の初代教会時代にも改革が必要であったことがよく分ります。最後の黙示録2:4、5でも、復活のイエスはエペソ教会にこう言われました。「あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの頃の愛から離れてしまった。ですから、どこから落ちたのかを思い起し、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、私はあなたの所に行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。」

 もう十分でしょう。聖書によれば、悔い改めを中心とする宗教改革は、教会としても個人としても当然のことであり、常に必要だということです。

 では、何故必要なのでしょうか。第二にその消極的理由を見ます。何でしょうか。たとい信仰があっても、人間には腐敗した罪の性質が残っていて、しかも常にサタンが教会と私たちを狙っているからです。

 確かに私たちは、ただイエス・キリストへの信仰により、神に罪を赦され、義とされ、神の子とされ、救いの道を歩むことを許されます。何と感謝なことでしょう。しかし、私たちはまだ途上にあり、未完成です。そのため、私たちの内に残る腐敗した罪の性質が、天国への途上で私たちを乱します。パウロですら、ローマ7:15、24で「私には、自分のしていることが分りません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。…私は本当に惨めな人間です」と告白しました。罪の力は恐ろしいです。信仰を誤らせます。私たちはまず自分を警戒する必要があります。

 その上、悪魔・サタンの攻撃があります。悪魔はイエスをも直接誘惑しました。活動開始前にイエスが40日40夜、断食された時、悪魔は旧約聖書の言葉も使ってイエスを誘惑し、更に全世界の贖いのための十字架への途上、サタンは弟子たちを通しても間接的にイエスを誘惑しました。ですから、イエスはペテロに言われました。マタイ16:23「下がれ、サタン。あなたは、私を躓かせる者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 そのペテロも後に信徒たちにこう警告しました。Ⅰペテロ5:8「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回って」いると。

 私たちの内に残る罪の性質、また身近な人や社会の風潮など何でも利用し、私たちを神から引き裂こうとする悪魔の執拗な働きを、私たちは決して忘れてはなりません。

 以上が、宗教改革が必要な消極的理由です。

 しかし、第三に積極的理由もあります。それは私たちが一層神に喜ばれ、マタイ5:13以降でイエスが言われるように、「地の塩、世の光」となり、また創世記12:3、4で、神が信仰の父と呼ばれるアブラハムに言われたように、私たちが「世の祝福」となり、神の栄光を顕し、イエス・キリストの香りを放つ教会と人間に成長するためです。その意味でも、宗教改革は常に必要なのです。

 では、具体的にはどうすれば良いのでしょうか。今朝は三つだけ取り上げます。

 第一は、何と言っても聖書の学びです。聖書の御言葉をよく学ぶことは、必ず私たちを罪と腐敗から守り、霊的に成長させます。体に食べ物が必要なように、私たちの魂にも食べ物が必要です。御言葉は魂の食べ物です。御言葉に触れませんと、信仰と魂は確実に弱ります。

 また御言葉は、罪や悪魔と戦うために必要な武器です。エペソ6:17は御言葉を「御霊の剣」と呼びます。

 今言う御言葉には、聖書の教えをまとめた教理も含みます。宗教改革者たちが告白しましたハイデルベルク信仰問答やウェストミンスター信条などの教理体系を少し読むだけで、どんなに教えられることでしょう。

 今、祈祷会では十戒を学んでいます。例えば、第一戒「あなたには、私以外に、他の神があってはならない」について、ウェストミンスター大教理問答の問104はこう解説しています。 

 「第一の戒めで求められている義務は、神を唯一の真(まこと)の神、また私たちの神であることを知り、認めること、また、それに相応しく神を礼拝し栄光を帰することです。それは次のことによります。すなわち、神を思い、瞑想し、覚え、大いに尊び、敬い、崇め、選び取り、愛し、慕い、畏れること、神を信じること、神に信頼と望みを置き、神にあって喜び、楽しむこと、神のために熱心になること、神に呼ばわり、限りない賛美と感謝を捧げ、全人を挙げて全き従順と服従を捧げること、全てのことにおいて神を喜ばせるようにと心を配り、何事によらず神に背くことがある時には、これを悲しむこと、謙って共に歩むことによるのです。」

 実はここは23か所も証拠聖句を上げて答えています。見事ですね!改革者たちは、聖書をそこまで掘り下げ、学び、自らに適用しました。それを思いますと、私たちは魂を揺さ振られます。

 魂がよく養われ、自分の罪と狡猾なサタンに打ち勝ち、地の塩、世の光として神の栄光を顕す者となるために、真剣に聖書の学びに努めたいと思います。改革派教会が発行しています聖書日課『リジョイス』もこの点で有益です。

 第二は祈りです。ウェストミンスター小教理問答の問88が言いますように、祈りはとても大切な恵みの手段の一つです。

 そこで、特に三位一体の神に祈ることをお勧めします。『改革者の祈り』という本を見ますと、例えば、宗教改革者メランヒトンがしばしば三位一体の神の各ご人格に呼びかけて祈ったことが分ります。私も独りで祈る時、天の父なる神、御子イエス・キリスト、そして私のような者をも私の体ごと妬む程に愛して下さっている聖霊なる神に、順番に呼びかけて祈ります。するとジワーっと感謝に満たされ、嬉しくなり、神との交わりが実感でき、しばしば自分が笑顔になっていることに気付きます。

 もう一つ申します。イエスがマタイ18:19、20で「あなた方の内の二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父はそれを叶えて下さいます。二人か三人が私の名において集っている所には、私もその中にいる」と約束されましたが、人と一緒に祈ることです。宗教改革者カルヴァンは、祈りを、土の下に埋められた宝を掘り起すことに喩えました。宝があっても、掘らなければ手に入りません。また皆で掘る方が断然良いですね。新約聖書の「使徒の働き」が伝えますが、初代教会は、厳しい試みを受けた時、皆が実によく集って祈りました。私たちも是非これに倣い、強められ成長させられたいと思います。イエスは言われます。ルカ19:46「私の家は祈りの家でなければならない。」

 第三は実際に行動することです。信仰者は具体的に行動することで、自分の欠けも分れば、どうすると良いかにも気付かされ、変えられ、神と人のために役立つ者に成長させられることが多いですね。

 宗教改革者たちは、聖書に基づき論理的・神学的によく考えましたが、具体的行動をしました。ルターが当時の教会の教えに疑問を感じたのは大分前からでしたが、すぐ動いたのではありません。悩み、しかし聖書を深く研究し、祈り、終に1517年10月31日、行動を起し、ここから宗教改革のうねりが全ヨーロッパに広がったのでした。また行動を起したことで、様々な反応があり、ルターの思索は一層練られ、深められ、広げられ、やがて『キリスト者の自由』とか『教会のバビロニア捕囚』などの著作も生れました。

 カルヴァンはジュネーブの教会で大変苦労しました。しかし、正しい信仰を明確にすることは元より、礼拝と教会の秩序を願って具体的に行動しました。彼はバーゼルにいた26歳の時に『キリスト教綱要』の初版を出しましたが、色々な人との対話や信仰の戦いを通して、5回も改訂・増補され、最終版は初版本の数倍もの分量になりました。またブラジルに宣教師を派遣し、プロテスタント最初の海外伝道を始めたのでした。

 こうしたことから、教会も信徒もどんなに神に喜ばれるものに変えられ、キリスト教会全体と世界のために貢献したことでしょうか。行動することは本当に大切です。

 但し、私たちは宗教改革者たちを決して偶像視してはなりません。彼らも決して完璧な信仰者ではなく、彼ら自身も自分が偶像視されることを最も嫌いました。パウロでさえ、ピリピ3:12~14で「私は、既に得たのでもなく、既に完全にされているのではありません。ただ捕えようとして追及している」と言い、自分の不完全さを述べているのです。

 大切なことは、漫然と現状に満足し、すっかり腰を下ろしてしまうことではなく、聖書が示しているイエス・キリストの体として教会と、私たちが似るべき主イエスの御姿を求めて、たゆみなく御言葉と御霊によって改革し続けることです。

 御言葉を勤勉に学び、熱心に皆で一緒に祈り、信仰により実際に行動する!愛と憐れみと慰めに満ちた主イエスが、どうか御霊により私たちを絶えず清め、力付け、導き、祝福して下さいますように!

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