2023年09月10日「罪の赦しを信ず 1(使徒信条の学び33)」

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5:17 ですから、だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。
5:18 これらのことは全て、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。コリントの信徒への手紙二 5章17節~18節

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 今、私たちは、古代教会が聖書に従って告白し、その後の教会も絶えず告白してきました使徒信条により、キリスト教信仰の基本内容を確認しています。

 神の御子イエス・キリストによる救いの恵みが最も豊かに表されるのは教会においてですが、その中で最大のものは、使徒信条が告白する「罪の赦し、体の甦り、永遠の命」でございます。今朝は「罪の赦し」を学びます。特に罪の赦しが如何に大切な神の恵みであるかを学びたいと思います。

 使徒信条を告白した古代教会は、実は信仰の戦いの連続でした。内には異端が現れ、外からはローマ帝国による迫害があり、背教者も殉教者も出ました。その上、ローマ帝国自体も混乱し、様々な危機が襲い、社会全体を不安が覆っていました。

 では、そんな中、古代教会は信仰による神の大切な恵みの中で、何を第一に告白したでしょうか。罪の赦しをこそ、彼らはキリストによる神の恵みの最大のものとして告白し、求道者にも熱心に教えました!これこそが福音の中心であり、神の全ての祝福の源だからです。

 その後、長い中世の時代を経て、教理や信仰が変になった部分もあり、遂に1517年10月31日、ルターによる宗教改革が起りました。宗教改革者たちは何よりただイエス・キリストへの信仰により罪の赦しを与える福音を守るために、命がけで戦いました。

 ところで、罪の赦しの重要性は、今日の教会やクリスチャンにどれ位認識されているでしょうか。心の平安や癒しなどが福音の中心のように見られる傾向はないでしょう。

十数年前、ある他教派の牧師は私に、「宗教改革時代には罪の赦しが重要なテーマだったが、今は流行らない。今は癒しが一番のテーマだ」と言い放ちました。

 また愛による慈善活動や社会問題への関りや奉仕活動こそ、教会の最重要課題であり、存在意義(レゾン・デートル)だと言われることはないでしょうか。無論、それらも皆大切です。実は古代教会は隣人愛に大変熱心でした。ローマ帝国からの迫害はありましたが、クリスチャンたちは社会の最底辺の人々を熱心に助けていました。それを支えたのは、マタイ25:40にある「あなた方が、これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです」という主イエスの教えであり、多くの人に仕えられた主のお姿でした。

 紀元313年、ローマ皇帝コンスタンティヌスの出したミラノ勅令により、キリスト教は公認され、迫害は終りました。しかし、その50年後、キリスト教を捨てて背教者と呼ばれた皇帝ユリアヌスの一時期、キリスト教は再び抑圧されました。ただ、ユリアヌスはクリスチャンを迫害しましたが、クリスチャンの愛の実践には感銘を受けていました。彼は紀元361年、声明書を出し、「キリスト教徒が我々の神の強力な敵になった理由は、病人や貧困者に対する彼らの兄弟愛のためである」と述べ、全てのローマ市民はこの精神を学ぶようにと命じました。とても興味深いですね。古代教会のクリスチャンたちは、社会や隣人にもよく仕えたのでした。

 それにも関らず、古代教会は使徒信条の中で、三位一体の神への告白の後、まず罪の赦しを告白しました。これがその時代の流行だったからではありません。聖書全体が教え、彼ら自身の体験からも、そう告白したのです。

 旧約聖書に詳しく書かれている様々な儀式律法も市民律法も皆、人間の罪の赦しと関係し、また神の御子イエスが人間となって律法を完全に守り、一切罪も汚れもないご自身の命を十字架で献げられたのも、何より私たちの罪の赦しのためでした。

 では、罪の赦しは何故それ程大切なのでしょうか。消極的な面から見てみます。

 イエスはマタイ16:26で「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の益があるでしょうか。その命を買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか」と言われました。万一、全世界を手に入れても、私たちが罪の赦しに与らなければ、何の意味もありません。思いと言葉と行いにおける自分の罪のために、私たちは死後裁かれ、永遠の死に至るだけです。

 イエスは言われました。マタイ12:36、37「人は、口にするあらゆる無益な言葉について、裁きの日に申し開きをしなければなりません。あなたは自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって不義と定められるのです。」実際、私達は言葉でどれだけ罪を犯しているでしょう。

 またヘブル4:13は言います。「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」Ⅱコリント5:10は言います。「私たちは皆、善であれ悪であれ、夫々肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストの裁きの座の前に現れなければならないのです。」

 残念ですが、自分の罪についての認識が段々薄れるクリスチャンもいます。それに比例して純真な信仰はやせ細り、神に感謝し神を喜ぶよりも、自分を満足させる方が重要になります。その結果、どうなるでしょうか。

 もう十分でしょう。イエス・キリストへの真(まこと)の信仰による罪の赦しが、どんなに大切かがよく分ると思います。

 次に積極的な面を申し上げたいと思います。罪の赦しこそが、神の全ての祝福の源だからです。

人間とこの世界の問題、また悲惨の全ては、人間の利己的な罪が原因で、神と人間の本来の関係が壊れてしまったことにあります。

 創世記には、最初の人間アダムとエバが神に背いて堕落し、エデンの園から追い出されたことが伝えられています。そこから人間と世界のあらゆる問題と悲惨が起っていることを教えるためです。神は女に言われました。創世記3:16~19「私は、あなたの苦しみと呻きを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配する事になる。」

 神はアダムに言われました。「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないと私が命じていた木から食べたので、大地は、あなたの故に呪われる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。あなたは、顔に汗を流して糧を得、終にはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土の塵だから、土の塵に帰るのだ。」

 何という悲惨であり空しさでしょうか。原因は人間の罪にあります。ですから、神の御子イエス・キリストによる罪の赦しが何より重要であり、それにより、私たちは神との関係を修復され、神との和解を許されるのです。Ⅱコリント5:17、18は言います。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。これらのことは全て、神から出ています。神は、キリストによって私たちを御自分と和解させ」と。

 自分の罪の自覚の甘さと薄さ!それ故のキリストによる自分の罪の赦しの認識と感謝と喜びの低さと貧しさ!これが実は、人がクリスチャンになってもなかなか清められず、相も変らず自己中心な肉の人である原因なのです。

 逆に、自分の罪についての認識の深さと悲しみが本当に人を変えます。パウロはⅠテモテ1:15で「私は罪人のかしら」だとまで告白しました。しかし、だからこそ、イエスによる自分の罪の赦しと神との和解を知ることから来る絶大な喜び、感謝、確信を持ち得たのです!これが私たちの信仰を確実に成長させ、私たちをますます霊の人に変えていき、今の世と後の世にわたる私たちの救いと永遠の命の確かな希望を形造ります。また困難な時の私たちの慰め、忍耐力、勇気など、神の豊かな祝福も、実はここから湧き出るのです。

 数え切れない位、厳しい苦難に遭いながら、使徒パウロは尚も穏やかで、ブレることもなく、どこまでも主イエス・キリストを愛し、天に召される時まで喜んで神と人に仕えました。どうして、そんなことができたのでしょうか。キリストによる自分の罪の赦しの恵みと神の愛の絶大さを知っていたからでした。

 苦しみ、悩み、悲しみ、不安の絶えない私たちの人生です。しかし、ただイエス・キリストへの信仰により与えられる罪の赦しが、愛と憐れみに満ちた神の恵み、祝福の原点であり源であることを改めて固く覚え、私たちを罪から救い、永遠の天の御国(みくに)への門と道を開いて下さった主イエスを、この新しい一週間もご一緒にしっかり仰ぎつつ、歩んで行きたいと思います。

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