2023年09月03日「心を一つにして祈ろう」

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心を一つにして祈ろう

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 18章19節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

18:19 あなた方の内の二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父はそれをかなえて下さいます。
18:20 二人か三人が私の名において集っている所には、私もその中にいるのです。マタイによる福音書 18章19節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 暑さはまだ続きますが、夏の間、心身共に弱っていました私たちの信仰を振い起すという意味で、9月第1主日の今朝の礼拝は、振起礼拝として神に捧げています。

 ご一緒に何を確認しようかと考え、結局、今年の教会標語にしました。今年も既に三分の二が過ぎた今ですが、教会標語を再確認する意義はあると思います。

 週報の第1面にある通り、今年の教会標語は「心を一つにして、ひたすら祈ろう」です。私たちクリスチャンが神に祈るのは当然であり、祈りは生活の一部です。とはいえ、改めて祈りについて、それも「心を一つにして祈る」ことの大切さを確認することは、やはり大切だと思います。

 その理由の一つは、今、当教会が私の次の牧師を探し求める時にあるからということです。

 私は71歳3か月でここに来て、間もなく76歳になります。体力的にいつまでも続けられず、しかし急に駄目になったからといって、次の牧師をすぐ見つけることは至難の業です。ですから、もう牧師交代の準備を始めているわけです。

 それはともかく、教会にとって、どういう牧師を迎えるかは、とても大切です。改めて言うまでもなく、教会の真(まこと)の牧師、魂の真の導き手は、神の御子イエス・キリストご自身です。エペソ1:22が言いますように、神はキリストを頭(かしら)として教会に与えておられます。またエペソ4:11は、「キリストご自身が、ある人たちを…伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てに」なったと言います。

 その通りなのですが、実際的なことを言いますと、毎週、聖書を説き明かし、色々な場面で発言し、伝道・牧会・教育を担う牧師の存在は大きいです。ですから、次にどういう牧師を迎えるかは、非常に重要なことです。

 それと今、牧師の数が明らかに不足しています。ですから、「まあ、いつか誰かが来てくれるだろう」などと安易に考えるのではなく、心を一つにして本当に真剣に神に祈り求める必要があります。神はそれを願っておられます。

 以上の「どういう牧師に来てもらうか」ということにも関連しますが、心を一つにして祈るべき第二の理由もあります。私たち教会員皆の信仰の一致が極めて大切だからという点です。

 真(まこと)のキリスト教信仰は、決して他人(ひと)任せ、牧師任せではありません。

 2000年の1月、当教会はスタートし、23年と8か月が過ぎました。色々なことがあり、色々な人の出入りもありましたが、とにかく私たちは今、「ここ」で伝道と教会形成に励むようにと、神に導かれています。将来のことは分りません。しかし、今分っている大事なことは、私たちは神の同じ召しの下に導かれ、「ここ」で恵みに満ちた主イエス・キリストの霊的な体として教会を形成することを神に期待されているということです。

 信徒一人一人について言うなら、ここで聖徒の交わりとしての教会を皆で協力してしっかり作り上げ、ここで奉仕し、ここで絶えず魂を御言葉で養われるのです。そしてここから派遣され、家庭、職場、学校、地域社会で、マタイ5:13~16でイエスが言われますように、少しでも地の塩、世の光とならせてもらうのであり、福音を飾り、隣人に福音を証しするのです。

 この場合、大切なことは、欠けと弱さは沢山あっても、主が導いて来られたこの小さな教会への愛と献身という一人一人の意識、自覚、要するに信仰の一致です。Ⅰペテロ5:8が「あなた方の敵である悪魔が、ほえ猛る獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回って」いると言う通り、サタンは常に意識や自覚や信仰の不一致を教会の中に作ろうと、隙あらば狙っています。だからこそ、私たちは心を一つにして、皆の信仰の一致を、神に真剣に祈り求める必要があるのです。

 心を一つにして祈る理由の三つ目に進みます。苦しみ、しんどさ、痛み、不安、悲しみなど、試練の直中(ただなか)にある方々が現におられるからです。

 週報には、私たちが祈りに覚えるべき方々のことを毎回記しています。「また同じことが書かれている」と思われるかも知れません。しかし、これは必要だから書いているのです。  どういうことでしょう。私たちは皆とても忘れやすいからです。当然、祈りだって忘れやすい。そうではないでしょうか。ですから、毎週、毎回、思い起させられる必要があるのです。

 全く予想外の余りに辛い試練に遭う時、私たちは弱さから、「神様、どうしてですか」とつい神に文句を言い、疑問をぶつけ、それどころか神を疑い、気持も混乱し、祈れなくなる時もあります。魂の危機です。ですからこそ、他の誰かが、いいえ、私たちが、その人に代って神に祈るのです。しかも極力心を一つにして祈るのです。

 大阪の淀川キリスト教病院に勤めていた時のことです。整形外科にかかっておられた60代のあるクリスチャンの女性患者が片足を切断しなければならなくなりました。どんなに辛く、どんなに怖かったでしょうか。しかし、後で言われました。「本当に辛い時、祈れんです。でも教会の皆さんが私に代って祈って下さったので、私は支えられました。」

辛くて祈れない方々、祈ることをまだよく知らない方々のためにも、代って私たちが心を一つにして祈ることを、主イエスは大いに期待しておられます。無論、今の世界の色々深刻な問題のためにも、です。

 今朝、もう一つ確認したいのは、「心を一つにして」という点です。

 今朝の聖書箇所、マタイ18:19、20でイエスは言われました。「あなた方の内の二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父はそれをかなえて下さいます。二人か三人が私の名において集っている所には、私もその中にいるのです。」

 大事なことは、二人か三人かという人数ではなく、皆で心を一つにして祈ることです。前にも話しましたが、宗教改革者のジャン・カルヴァンは著書『キリスト教綱要』第Ⅲ巻20章で「主の福音が私たちの信仰に示して直視させる諸々の宝を、祈りによって掘り出すということは、誠に真実である」と言いました。厳しい宗教改革の中、彼自身これを体験したでしょう。祈りは、地中に埋められている諸々の宝を掘り起す作業!それなら一人よりも二人、いいえ、皆で心を合わせて祈る方が断然良い!皆で心を一つにして祈る恵みは、実際、大きいのです。

 旧約聖書のエステル記には、昔、ユダヤ人が絶滅させられそうになったことが伝えられています。紀元前479年頃、ユダヤ人モルデカイに育てられた美しいユダヤ人の娘エステルがペルシア王クセルクセスに認められ、王妃となりました。ところが、王の部下に悪人ハマンがいました。傲慢不遜なハマンは、自分に平伏さないモルデカイを個人的に憎み、何とユダ人絶滅を企み、王を言いくるめ、アダルの月の13日にユダヤ人を絶滅せよとの命令をペルシア全州に出したのです。国中でユダヤ人は嘆き、断食し、泣きわめきました。

 モルデカイは密かにエステルに遣いを送り、王からの憐れみを求めるように言いました。しかし、王からの召しもないのに勝手に王に近づけば、当時の法令では、王妃でも死刑になりました。彼女は恐れ、悩み、苦しんだことでしょう。しかし、ついに覚悟を決め、エステルはモルデカイに、全ユダヤ人が三日三晩断食して彼女のために祈ってくれるようにと頼み、最後にこう言いました。4:16「私は、死ななければならないのでしたら死にます。」

 全てのユダヤ人たちは、その通り、心を一つにし、必死になって祈りました。

 神は祈りを聞かれ、大逆転が起り、ユダヤ民族は絶滅から本当に救われたのでした。

 歴史は、神が生きて働いておられることを証ししています。

 私たちが本当に心を一つにして祈る時、私たちの願い通りの時に、願い通りの形ではないにしても、神が最善に聴いて下さることは確かです。ですから、私たちは改めて仲保者イエス・キリストの御名により、大切な方々と大切なことのために、是非、心を一つにして祈りつつ、今年の残り四か月を送りたいと思います。

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