2023年08月13日「天の父は与えてくださる」

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天の父は与えてくださる

日付
説教
服部宣夫 神学生
聖書
ルカによる福音書 11章5節~13節

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聖句のアイコン聖書の言葉

11: 5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。
11: 6 友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。」
11: 7 すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。「面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。」
11: 8 あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。
11: 9 ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。
11:12 卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。
11:13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。ルカによる福音書 11章5節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 先週の主の日の礼拝後に、神学生であるわたしの歓迎会を開いていただき、感謝します。岡山西の皆様とそのご家族とお知り合いになることができ、皆様のことを知るきっかけが与えられました。大変に楽しい会でありました。委員の皆様によって用意された昼食はサンドイッチ。わたしは、パンと具、パンと野菜やハムが挟まれたサンドイッチを見、そして頬張りながら、今日の奨励のことを考えていました。いいえ、正確には、今日、先ほど与えられた御言葉について、その構成についてでした。というのは、与えられたルカによる福音書11章5~13節は、サンドイッチのような仕組み、構成になっているからです。

 実は、ルカによる福音書11章5~13節ですが、1~13節が一続きとなっています。そして1~4節は、あの「主の祈り」が教えられていました。そして5節からは一つ目の譬え、8節からはイエス様の教え、11節からは二つ目の譬え、13節でイエス様によるまとめという順番になっており、イエス様の教えとイエス様の譬えが、まるでサンドイッチのように、挟み込む状態になっているのです。

 それにしても、このサンドイッチは、本当に挟み込まれているものが、不思議なもの、不思議な性質なのです。二つの譬えのことです。「主の祈り」では、信仰者にとって、全人類にとって、なくてはならない祈りが、偉大な真理が、教えられました。その直後、「真夜中にパンを貸してくれと友人宅に出向いた友達の譬え」、まことに非常識な友達の話しが語られ、その後は、あの有名な、マタイ福音書にも記されている「求めなさい」の教え、これは愛唱聖句とされている方も多いのではないかと思われます。Great text(グレイト・テキスト)ですね。その直後に「魚を欲しがる子供に蛇を与える父親はいない」「卵を欲しがるのにサソリを与える父親はいない」という譬え、反語を用いた何とも奇妙な譬えが語られているのです。まさにサンドイッチのような御言葉の順番、一連の説教の構成といって良いでしょう。

 確かに非常識な友達の譬え、何とも奇妙な父親の譬えが、サンドイッチの具のように挟まれていますが、イエス様の教えの主題は明確です。それは「祈り」です。「祈り」について、弟子たちに請われて教えられた一連の説教のなかに、この二つの譬えがサンドイッチの具のように挟まれているのです。岡山西伝道所の年間標語には「祈り」が掲げられています。今日、私たちは、イエス様から、「祈り」についてその最も大事なことを聞き取ることになるはずです。

 最初に、もう一つ重要なことを指摘しておかねばなりません。今弟子たちに請われてと申し上げましたが、一連の説教は、そして二つの譬えは、「弟子たちに」向かって、つまりイエス様の最も近くにいた者たちに向けて語られた説教、教えであったということです。イエス様が「祈り」について教えてくださった、しかもイエス様の最も近くにいたお弟子たちに向けて語ってくださった、その教えを私たちも聞くことができる。これほど嬉しいことはありません。この喜びを、まず、共々に確認しておきたいのです。

それでは、早速、御言葉を見ていきましょう。

 11:5~6「また、イエスはこう言われた。『あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。「友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。」』」

 先ほど、この譬えには非常識な友達が出て来ると申し上げましたが、まさにその通りですね。訪ねてきた友達の事情は分かります。しかしいかに「友達」とはいえ、「真夜中」に家に来られて、「パンを三つ貸してくれないか」と求められたら、「えっ」と思いますし、「おいおい」と思いますし、「何だよ、この時間に」と思います。こんなことが許されるのは、日本でいえば学生時代の時だけでしょうね。結婚して、家庭を持って、子供を授かって、子供がまだ小さくてという状況で、学生時代の友人だからといって、いきなり「真夜中」「パンを三つ貸してくれ」はあり得ません。

 ただ聖書学者によれば、昔の中近東では、こういうことは、頻繁にではないけれども、ままあったということです。旅人は、昼の暑さを避けるために、夜中に移動したということですし、旅人をもてなすことは、彼らにとっては大切な隣人に対する愛情の証しであったということだからです。

 イエス様は、しかし、このような当時の習慣を背景として用いながらも、かなり重要な物語の設定をしています。まず「友よ」と呼び合う関係が埋め込まれています。友と友、これはいわば水平の関係です。しかし、その友には、家庭があり、子供がいた。父と子の関係が埋め込まれています。これはいわば垂直の関係です。譬えの中に、水平と垂直の両方の関係が埋め込まれている。このイエス様が意図された構図を覚えておく必要があるでしょう。しかし、譬えは、当然の展開を示します。

 11:7「すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』」

 古代の中近東の話しに限りません。真夜中、寝静まっている家族と子供たち。ドンドンと戸をたたく音。やおら低く響く声。「友よ、俺だ。急な客が来た。頼む、パンを三つ貸してくれないか。客の友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。」これに対しては、まさにこう言う以外にありません。「面倒を掛けないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。もし物音で、子供たちが起きてしまったら、泣き出すかもしれないし、ぐずるかもしれない。起きて、何かをあげることはできない」。私たちだって、大切な友達であっても、きっとこのように反応し、対応するでしょう。譬えの設定と話しの展開を聞く聞き手、私たちの気持ちの流れをイエス様はよくご存じです。しかしその上で、イエス様はこう結論を教えられます。

 11:8「あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。」

 そうして、あの偉大な御言葉が語られます。

 11:9「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」

 11:10「だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」

 「求めなさい」「探しなさい」「たたきなさい」。これが「祈り」だ、祈りの姿勢なのだとイエスは仰って(おっしゃって)いる。「そうすれば与えられます」「そうすれば見出します」「そうすれば開かれます」。これが祈りの結果だ、祈りに対する約束だと仰っている。教えを聞いている弟子たちは慰められ、喜びを感じたでしょう。私たちも喜びと嬉しさを覚えます。

 しかしです。「求めなさい」「探しなさい」「たたきなさい」は、実は、決して中途半端な姿勢ではありません。11:8の御言葉に戻り、「しかし、友達のしつこさのゆえなら起き上がり」に注目しなければなりません。特にこの「しつこさ」という言葉です。この言葉は新共同訳では「しつように頼めば」、口語訳では「しきりに願うので」と訳されますが、原典は訳しにくい言葉です。英語の聖書では impudence「ずうずうしく、厚かましく」とさえ訳すものがあり、確かにこの訳も可能です。「しつこく、しつように、しきりに」「ずうずうしく、厚かましく」「求めなさい」「探しなさい」「たたきなさい」。これが、イエス様がこの譬えから教えてくださっている祈りの姿勢なのです。「ずうずうしく、厚かましく」とさえ言われるほどの「しつこさ」「しつようさ」。いかがでしょうか。私たちの、私の祈りの姿勢が問われます。

 しかし、この譬えを通して教えられることは、このことに留まりません。私たちは「友よ」と呼びかけるという物語の設定の流れに乗ってしまっているため、つまり水平の関係でどうしても話をイメージしてしまうために、祈りとは、本来、天の父に願い求めることをうっかり見落としてしまいます。「天にまします我らの父よ」(ルカ11:2では、単に「父よ」だけ)、つまり、あの「主の祈り」の呼びかけのことをです。とするなら、この「友よ、パンを三つ貸してほしい」と真夜中に訪ねてこられ、寝ているところを起こされそうになったこの友は、一体誰を指しているのでしょうか。

 ある説教者は、「この友にこそ、実は天の父が暗示されている」と解説しました。まさか?と思います。譬えの設定では、あくまで友と友という水平の関係の設定ではないか。しかし、その説教者によれば、「友よ、パンを三つ貸してほしい」と真夜中にたたき起こされそうになったこの友が、「面倒を掛けないでほしい」と応えたところに、私たちの祈りの本当の現実が示されているのだと講解します。つまり、なかなか祈りの応答がないということ、すなわち祈りがなかなか聞かれないという現実です。祈っても祈りが聞かれない。この問題に直面しない信仰者はいないと思います。このことを踏まえて、さらにある説教者は、聞かれない祈りとは、沈黙される神様が示されることだと講解します。沈黙される神様。神の沈黙です。

 もし、私たちの祈りに対して神様が沈黙されることが有るならば、「求めなさい」「探しなさい」「たたきなさい」には、本気が、全力が、必死さが、意味されていることになります。「しつこく、しつように、しきりに」「ずうずうしく、厚かましく」には、天の父に向かう、そういう本気さ、全力、必死さの姿勢を教えられているのです。私たちの、私の祈りの姿勢が問われます。この譬えから問われていることは、この姿勢であります。

 それでは、そのように求めてくる子供たちに、天の父は、何を、どのようなものを与えてくださるか、が次の譬えで示されます。

 11:11~12「あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。」

 イエス様は、こういう「父親がいるでしょうか」と二回問いかけられます。もちろん、聞き手が「そんな父親などいるはずがない」と反応することを前提として語ってくださっています。「子供が魚を求めているのに」「卵を求めているのに」「蛇を与える」「サソリを与える」父親はいません。子供が欲しがっているなら、必ず「魚」を「卵」を与えます。そうして、次のようにまとめられます。

 11:13「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

 イエス様は「あなたがたは悪いものであっても」と仰(おっしゃ)います。これは、「あなたがた」つまり私たちには、全員罪があることを指摘された御言葉です。逆に言えば、ご自身には罪がないことを宣言されているのです。その上で、たとえ罪人であるあなたがたであっても、「自分の子どもたちには良いものを与えることを知ってい」ると仰います。そうして、「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と宣言され、約束されて一連の説教を閉じられたわけです。

 それにしてもです。この宣言と約束に、私たちはある種の唐突さと驚きを覚えざるをえません。子供が必死に「求め」「探し」「たたき」そうして、天の父が満を持して与えてくださるものが聖霊であられるとは。マタイの福音書では、このルカと同じ、イエス様の全く同じ説教が記録されていますが、

 「それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」とあります。「良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」。こちらの方が、一連の説教の流れとして、ぴったりと納まるように思えてしまいます。恐らくイエス様は、マタイのように「良いものを」と説教された時も、そしてルカの「聖霊を」と説教された時も、あったのだと思われます。その両方の説教が実際にされたのでしょう。

 それでは、祈りの結果として主イエスが約束し、天の父が与えてくださる聖霊とは一体何なのでしょうか?この譬えの中から、実は、重要な真理が示されてきます。

 11~12節の父親は、「魚」と「卵」という大切な「食べ物」を与える父親として示されました。つまり「食べ物」です。しかし「食べ物」には、もう一つの「食べ物」があります。「御言葉」です。思い出します。悪魔が誘惑したとき、イエス様は、聖書を引用されて、こう仰いました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」そうすると、こうなります。「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに『神の口から出る一つ一つのことば』を与えてくださいます」と置き換えることができます。いかがでしょうか。私たちは、慰めと嬉しさと、同時に気の引き締まる思いとを与えられます。

 また、「聖霊」は霊なる神であられ、教会に様々な「賜物」を与える主でいらっしゃる。そのことを使徒パウロが示しています。つまり「賜物」です。例えば「御霊の実」としてガラテヤ5:22~23には、「愛、喜び、平 安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を挙げています。そうすると、こうなります。「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに『愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制』を与えてくださいます」と置き換えることができます。これにも、同じように私たちは慰めと、嬉しさと、同時に気の引き締まる思いとを与えられます。

 さらに聖書全体から聞き取れるメーセージとして、二つ指摘しなければならないことがあります。一つは、あのヨハネ3:16の御言葉が示す真理です。こうありました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」

 天の父なる神様は、その独り子を世にお与えくださった。それほどに世を愛されたのです。天の父なる神様が、人間に、私たちに与えてくださった賜物、最大の賜物は、独り子であったイエス様であった。祈りの姿勢について示されてきた私たちですが、やはりこのことを心に刻まなければならないと思います。

 もう一つは、イエス様ご自身が聖霊の御神について、こう仰っていたことです。ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

 つまり、聖霊は、弟子たちにイエス様の「すべてのことを教え」、イエス様が弟子たちに「話したすべてのことを思い起こさせてくださ」る御神であられる。この御言葉は、イエス様が約束された聖霊は、私たちとイエス様と一緒にいさせてくださる方であられることを伝えています。つまり、イエス様が天に昇られる前に弟子たちに約束され宣言されたあの御言葉が、聖霊の御神によって成就するのです。マタイ28:20「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 今日の御言葉に戻って奨励を終わります。イエス様の宣言と約束です。11:13「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

 この約束において、イエス様は、求める者に聖霊を与えること、すなわち御言葉を与えること、賜物を与えること、そして求める者たちと共にいてくださることを宣言し、約束されています。この宣言と約束に基づいて、共々に祈りに励む一週間を求めたいと願います。

 今朝示された私たちの祈りの姿勢は、「しつこく、しつように、しきりに」、時に「ずうずうしく、厚かましく」とさえ思われるほどに天の父に祈り、願い、「求める」ことでした。

 11:9「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」

 11:10「だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」

 祈ります。

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