2023年08月10日「十戒…第一戒 唯一の神を信ぜよ」

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十戒…第一戒 唯一の神を信ぜよ

日付
説教
服部宣夫 神学生
聖書
申命記 5章7節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:7 あなたには、わたし以外に、他の神があってはならない。申命記 5章7節

原稿のアイコンメッセージ

 金田幸男著『十戒・主の祈り-講解説教集』(聖恵授産所 1998年)をベースにして

 「わたし以外に」(新共同訳聖書では「わたしをおいてほかに」)と訳されているこの言葉は、二通りの訳し方が可能です。ひとつは「わたしと並んで」、もう一つは「わたしに逆らって」です。後者は、神の意志に逆らって、神に対する反逆として、他の神を神としてはならないという意味になり、前者では、いろいろの他の神が存在していると考えられているけれども、それらを、イスラエルの神、主と同じ水準においてはならない、という感じがあります。…両者はあまり違った意味ではないと思います。

 神は無数にあるように見えて、実は神ならぬものを礼拝しているにすぎず、被造物にすぎないものが神として崇められています。その意味で、神は人間の観念の創作であるという主張は正しいのです。…このように、神ならぬものを神と並べて、神として礼拝したり、崇めたりすることが禁じられている、神の栄誉を他のものに移し、これを神と同様に扱ってはならない、これが第一戒のポイントです。…こうして、神に反逆することがあってはならないのです。

 救出という神の偉大な御業のすぐ後で、「ほかの神があってはならない」と言われたのです。だから、エジプトでの奴隷状態から不思議な方法で救いだしてくださった神に逆らうことは、おそろしい忘恩の行為にほかならないゆえに、この神以外を神とすることが禁じられるのです。

 …ですから、この戒めは、頭ごなしに、一方的に、神という存在が人間に命令するといったものではありません。神の一方的な恩寵に対する感謝として、また、神への応答として、だからこそ、救われたものの信仰の告白として、神を、神だけを神としなければならないのです。

 現世の利益を約束する神々は、現世の幸福を追い求めるものには魅力あるものとなります。イスラエルも生活が安定し、平和になってきますと、エジプトからの救いを忘れ、現世の幸福だけが祝福と考え出します。すると、たちまち、バアルをはじめとするカナンの神々を拝むようになります。

 日本伝道を担った欧米の宣教師は、上陸してすぐにそこは偶像の乱立する土地であることに気づきます。宣教師たちはその偶像との戦いが必要であると痛感します。第一戒を振りかざし、信徒には、まことの神だけを礼拝するように教え込みました。そのこと自体は正しい行動であったと思います。祖先崇拝、天皇とその祖霊を神として体系化された神社・神道との対決なしには、キリスト教や教会確立は不可能でした。

 しかし、それは、信徒に苦しい戦いを要求するものとなりました。信徒に女性が多かったわが国においては、家庭の宗教である祖先崇拝、仏壇・仏具、墓の問題は、キリスト教を告白する婦人には、たちまち重大な選択を迫るものとなりました。家を取るか、信仰を取るか、二者択一を求められ、結局、棄教せざるをえない人が続出しました。男性でも家を継ぐということは、家の宗教を継承すること、ひいては仏事の主催者となるということで、結局、長男であるキリスト者の絶対数は限られたものとなりました。

 この第一戒を遵守するためには、大きな内なる力が必要です。…むろん信仰の力です。しかし、信仰さえあれば第一戒を守れると、簡単に言うことはできません。…しかし、この困難さに耐えられる人は少ない。ただただ、神は唯一であって、本当の神は聖書の神、キリスト教の神だというだけで、その唯一信仰を頼りに困難な偶像や神々との戦いに出征しなければならないとしたら、多くの人はただ傷つき、矢尽き、刀折れの状態で後退するだけです。神が、その戦いのために何をしてくださったのか、これから何をしてくださるのか、これに気づくことが肝心です。別の言葉で言えば、神の恵みを深く経験することです。

 「唯一の神のみを礼拝せよ。」

 この言葉を初代のキリスト教徒は、皇帝礼拝が強制される中で聞きました。…皇帝を礼拝しなければたちまち、皇帝に対する忠誠が疑われ、命を失うことになります。…この皇帝礼拝という、擬似的唯一神礼拝はまったく選択肢のない、不自由な礼拝の強制と同じでした。…皇帝礼拝は恐るべき疑似唯一神教であるといっても誤りではない…。

 もし、十戒の第一番目の戒めがこれと同じような、神を崇めなければ、たちまち、神罰が下り、不幸と悲惨のどん底に叩き込まれるというような恐怖の戒めであるとすれば、どこで神の恵みと調和するのでしょうか。…愛する独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、罪人のために十字架につけられる神が、唯一の神を礼拝しないからといって、直ちに処罰するという短気な神であるはずがありません。

 唯一の神を礼拝しないからといって、それですぐに罰せられるわけではありません。神は忍耐して立ち帰ることを待っておられます。むろん、神はご自身だけ礼拝されることを切に願っておられます。神の御許(みもと)にだけ救いと永遠の祝福があるからです。

 語り合いのために

・「わたし以外に」(わたしをおいてほかに)という第一戒の根本は、私たちをどのように祝福し、どのような課題に導くか?

・人の手の業(わざ)でしかない神仏(偶像)が乱立している日本社会は、無宗教社会へと変容しつつあるのだろうか?

・そのような変容がもし認められるとするなら、日本伝道にはどのような展望が求められているだろうか?

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